世界一の〝歴史長寿国〟
いまや日本人の平均寿命(余命)は、男性が80歳に達し、女性はすでに85歳を越え、日本は世界一の長寿国といわれている。もちろん、短命より長命のほうが望ましいから、結構なことである。しかし、本当に大事なのは、人生の中身がどれほど充実しているかであろう。
同様に、国家の歴史も、単に大昔からあったか否かだけではなく、建国の理想がいかなるものであり、それが正しく継承され発展してきたか否かで評価が分かれる。
現在、世界で独立国家とみなされるもの約200。そのうち、エジプトや中国など数千年の歴史を有するところも少なくない。しかしながら、建国以来の王制(君主制)が一貫継承されているのは、管見の限り日本以外に現存しない。その意味で、わが国は世界一の〝歴史長寿国〟と称してよいであろう。
では、わが日本国はいつごろ、どのようにして誕生し成長をとげたのだろうか。先年亡くなった社会史家A氏らの、日本国は「日本」という国号が成立する7世紀以前に存在しない、等というのは論外としても、戦後の学界では、日本国の成立年代を「大和王権」による国内統一の進んだ4世紀以降とみなす論者が今なお多い。
九州から畿内への東征
しかし、日本の建国史は、それより何百年も遡る、というのが私の恩師田中卓博士の卓説である。『古事記』『日本書紀』は、確かに奈良初期(712年・720年)に完成されたものである。とはいえ、その基をなす神代の物語(神話)や神武天皇などの伝説が古くから口承されてきた可能性は十分あり、さかしらに否定すべきでない。むしろ考古学などの成果も参照しながら、そこに可能性の高い史実の反映・痕跡を読み取ることこそ、古代史家の務めであろう。
その第一人者田中博士によれば、ヤマト朝廷の祖先は、北九州(福岡県山門郡一帯か)に原拠があり、やがて南九州(宮崎県高千穂一帯か)へ勢力を伸ばし、さらに瀬戸内海を経て畿内の大和まで進出したことは、天孫降臨神話や神武東征伝説などから、大筋で史実と認められよう。
ただ、その東征は、早くから何度も試みられて失敗を重ねた。それにようやく成功されたのが、移動先の大和地域、とりわけ磐余(奈良県桜井市・橿原市一帯)あたりに新しく拠点を築かれた神武天皇(カムヤマトイワレヒコノミコト)とみられる。
しからば、その東征は何故に行われたのか。背景の1つは、弥生時代に九州から本州へと広まった稲作文化の普及がある。もう1つは、前漢から後漢にかけて中華帝国の勢力が、朝鮮半島に及び、九州の群小諸国までも脅かす状況にあったからであろう。
そこで、ヤマトの大王は、新天地を求めて東方遠征に乗り出し、長年にわたる苦難の末、畿内の大和を平定するに至ったのであろう。とすれば、その東征は、およそ弥生中期(西暦1世紀初め)ごろと推測することができよう。
ちなみに、『日本書紀』は、中国伝来の辛酉革命説(60年ごとの辛酉の年に天命の変革が起きやすいとの数理予言説)に基づき、第33代の推古女帝九年辛酉(601)より1260年(60年の21倍)前の辛酉(西暦前660)を機械的に神武天皇即位元年と設定している。しかし、仮に1代平均20年弱とすれば、約600年ほど短縮して、西暦1世紀前後が実年代と推定されよう。
「八紘を掩ひて宇と為さん」
こうして今から約2000年前、大和入りされたとみられる神武天皇は、即位に先立ち「令」を出された。それは、『日本書紀』の編纂時に立派な漢文で表記されているが、その主旨は古からの口承に基づくものと考えられる。「令」の漢文を書き下しで示せば次のとおりである。
それ大人の制を立つるには、義かならず時に随ふ。いやしくも民に利あらば何ぞ聖の造に妨はむ。……恭みて宝位(皇位)に臨み、元元(人々)を鎮むべし。上は乾霊(=天照大神)の国を授けたまひし徳に答へ、下は皇孫(=邇々藝命)の正を養ひたまひし心を弘めん。然して後、六合(=大和)を兼ねて都を開き、八紘(=天下)を掩ひて宇(=国家)と為さんこと、また可からずや。
これによれば、神武天皇が皇位に即いて人々を安らかにしようとされたのは、皇祖天照大神が高天原から大八洲・瑞穂国へ皇孫邇々藝命を遺して、国を授けられた恩徳に応え、正しい道徳を養う心を弘めるためである。一言でいえば、〝道義国家の建設〟を目標とされたことになろう。しかも具体的には、まず中心の大和近辺を統べて都(宮処)を定め、さらに八方の天下全体を覆って1つの宇としたい、つまり〝家族国家の建設〟を理想として掲げられたことになる、と解してよいであろう。
世界の古代国家で、これほど明確な目標・理想のもとに建国の歩みを始めたことがわかる例は、他にほとんどないとみられる。もちろん、わが国でも、これがただちに実現されたわけではない。ただ、日本史上、多くの天皇も為政者たちも一般庶民も、各々の立場から徳義・道徳を重んじて、一大家族のように信じ合い助け合う〝道義国家・家族国家〟を目標・理想に掲げ、各々に努力してきた事例は数多くみられる。
「諸事、神武創業の始めに基づき……」
このような神武天皇による建国創業の理想を振り返りながら、それを原点として再出発したのが明治維新にほかならない。
慶応3年(1867年)、徳川慶喜将軍の〝大政奉還〟に続いて新政府から出された「王政復古の大号令」には、まさしく「諸事、神武創業の始めに基づき……」とあり、同時に「至当の公議を尽くす」ことが求められている。 あの輝かしい明治維新は、〝復古〟という過去を踏まえる右足と、〝革新〟という未来に歩みだす左足とにより、力強く近代国家づくりに立ちあがることができたのだといえよう。その過程で『日本書紀』の編年記事を新暦に換算して、神武天皇の即位日(紀元節)は2月11日、その崩御日(神武天皇祭)は4月3日と定められたのである。
【補注】 『神武天皇論』の諸論考
令和2年(2020)に刊行された清水潔氏監修『神武天皇論』(橿原神宮庁)は、神武天皇に関する諸論考を収めており、参考になる。なかでも、岡田登氏「神武天皇とその御代」の以下の指摘は注目される。
「‥‥弥生時代には北部九州の甕棺墓を中心に、これらの貝(琉球列島南海産のゴホウラ貝・オオツナノハ貝・イモ貝・スイジ貝)で作った貝輪が副葬され、前期古墳では畿内を中心に碧玉や緑色凝灰岩に置き換えた石製腕飾類(車輪石・鍬形石・石釧)が副葬されている。このことから、南海産貝輪は南部九州に出自する皇室の問題を考える上で注目される。(神武)天皇の御東遷経路は、南海産貝輪の交易ルートを利用したものであろう。」(久禮旦雄)