皆さん、こんにちは。本日このような素晴らしいホールにおいて、大切な記念の会合でお話をさせていただくことを、大変光栄に存じます。私は昭和16年(1941)12月の生まれですから、まもなく83歳になりますが、幸い今のところ元気でおります。これから大まかなところ、1時間くらい主題の話を申し上げ、あと30分くらい関連した余談に及びたいと思います。
京都の繁栄を可能にした要因
個人的なことですが、私は岐阜県の揖斐川町という西美濃の山村部に生まれ育ちましたので、京都は小さい頃から憧れのミヤコでありました。
京都へ初めて来たのは、昭和23年(1948)春小学校へ入る直前です。父親が戦死しましたので、納骨のために母と本願寺へお参りをしました。当時は食糧が乏しく、お米を家から持って行かないと、旅館に泊めてもらえませんでしたが、それでも京都は何と素晴らしいところかと思いました。
京都は今や国内だけでなく海外からも高く評価され、オーバーツーリズムすら問題になっているほどです。その魅力はどうして出来たのかといえば、これはまさに1200年以上にわたる「ミヤコ」としての歴史・伝統の積み重ねがあるからでありましょう。
それは一見してわかる建造物などの文化財だけではありません。むしろ、そこに住まわっている市民の皆さん方が身につけておられるたたずまいなど、やっぱり京都はいいなあと思えるような雰囲気を醸し出す京都らしさこそ大切だと思われます。
しかしながら、率直な感想を申せば、そのような京都らしさが近年なぜか薄れつつあるような気もします。それは、京都が京都である認識の減少によるのかもしれません。
この京都は、確かに千年以上にわたり「都」でありました。けれども、明治の初めに天皇が東京へ遷られてから、奈良や飛鳥のように、古都から廃都になってしまう恐れがありました。それにもかかわらず、いろんな機会にこの京都を京都たらしめる工夫と努力のおかげで今日があるわけです。
そうであれば、現在こうしてあることが当たり前なのではなく、それを可能にしてくださった先人たちのおかげであることを、あらためてみんなで思い起こし、それを後世にも伝えていく必要があります。
「都草」有志のボランティア活動
今日は「都草」の方々が着実に尽力してこられた「京都御苑散策ガイドツアー」の十周年記念行事であります。その方々は京都のこと、とりわけ御苑のことを多くの人々に知ってほしい、深く知ってほしいという思いから、こういうボランティア活動を始められ、今も熱心にやっておられます。しかも、こういうことを全市民・全府民の皆さんにも知ってほしい。京都を自分たちがしっかりと理解して、それを身近な家族にも近所の人々にも、さらに観光客にも外国の来訪者たちにも伝えていく必要がある、と考え努力しておられる。まことに貴重な存在であります。
念のため、及ばずながら私も「都草」ボランティアの一人だと思っています。現在顧問の坂本孝志さんや現理事長の小松香織さんなど多くの方々と、十数年ほど前からいろんなお付き合いがあり、今日に至っております。また、この会場には前市長さんもお越しくださっています。さらに京都市の職員や関係団体の方々から協力を得て、いろんなことを行ってこられました。よく考えてみますと、あの方がいてくださったから、こういうことができたとか、今がありえるのだと思えることが、多々あります。
それについて、少し年代を追いながらお話させていただきます。

京都御所と京都御苑を大切に
言わずもがなのことかもしれませんが、「京都」とは何なのか、確かめておきます。京都の「京」というのは、大きいという意味です。数の上でも京は1億の1億倍でして、極めて広大なエリアです。「都」という字は、すべてがあつまるという意味があります。従って、京都という漢語は、大きな広い所に多くの人々が集まっている場所ということになります。
それを大和言葉で「みやこ」というのは、ミヤ(御屋)すなわち天皇の住まいとされる宮殿=御所がある「コ」(処)ところということです。従って、天皇が居られてこそ京都は真の都たり得る、ということであろうかと思います。
そういう京都の中心は、京都御所だけで考えられるかもしれません。けれども、最前来、環境省京都御苑管理事務所長の小口陽介さんよりわかりやすいご紹介がありましたが、あわせて京都御苑も一緒に考えなければなりません。宮廷文化を理解するため、この御苑を含めて考えますと、それによって全体像が見えやすくなります。
いま御苑の中は、宮内庁所管の京都御所と、環境省所管の京都御苑(国民公園)、さらに内閣府所管の京都迎賓館等々があり、そのほか皇宮警察署もあります。それらが一体となって、きちっと京都の中核に維持されているわけです。
こういう京都御苑を含む京都御所のような素晴らしい名所を理解しようとすれば、その外面的な建物も大事なのですが、それにどういう来歴があり、どういう意味を持っているのかということを、もう少し深く知る必要があります。そういうものは建物であれ調度であれ、いつころ誰が作ったのか、どのように伝えてきたのかという来歴や、いろんな人々の営みまで背景として理解されるならば、京都宮廷文化というものが日本文化の中核をなす超国宝級の「伝世文化」として認識できるようになるだろうと思います。
それを深く理解することは、短時日にできません。けれども、それを他ならぬ京都市の方々、あるいは京都にゆかりのある人々自身が、外面だけでなく内面まで理解を深められるような努力を重ねていただければありがたいと思います。私自身も京都で31年ほど勤めましたけれども、まだまだ知らないことが多く、これからも努力をしたいと考えています。
たとえば、みんなで大事にしたいのは身近な地名です。私は昭和56年(1981)に京都産業大学へ赴任したとき、龍安寺の近くに家内の実家がありましたので、そこから大学へ通っていました。当初そのバス停ごとの地名が面白くて関心のあるバス停で降りて、その辺りを見て廻ったことがあります。
そのような地名は、昭和40年(1965)ころから全国的に整理されてしまいました。しかし、京都では住民たちの強い要望により、古来の地名を残されました。そのおかげで今なお住居表示を見るだけで、そこがどこであり、どのような由緒をもっているかを知ることができます。
こういうことを考えますと、京都が京都らしくあり続けるとは、京都の皆さんが、まず自分の住んでいるところから始め、その範囲を段々と広げてみられますと、今まで何気なく見過ごしてきたところに、こんな意味があったのか、こんな人々がいたのか、ここでこういうのが作られていたのかという事が見えてくれば、もっと大事にしていきたいという気持ちも湧いてこられるだろうと思います。
そういう真価をみんなで発見していこうとしますと、関係官庁の方々のご助力も必要なのですけれども、より多くは民間の方々が、住民一人ひとり京都御苑や京都御所ゆかりの宮廷文化の本当の値打ちを共有して、それを伝えていく、というふうなことをしていただきたいと思っております。あえて「再発見」と題しましたのは、今まである程度わかっている、もう見て知っていることでも、本当はどうなのか、どういう意味をもつのかもう一遍問い直してみるとこんな意味があったのか、こんな役割を果たしていたのかということを、あらためて見いだすことができる。そういう再発見の手がかりとして、今日の集いが少しでも役に立てばありがたいと思っております。

平安以来の土御門内裏と京都御所
今年(令和6年)はNHK大河ドラマ『光る君へ』の影響もありまして、「源氏物語」自体にも、藤原道長や紫式部にも関心が高まっています。ただ、すでに平成13年(2001)、東映で『千年の恋―ひかる源氏物語』という映画が作られました。さらに同20年(2008)には、「源氏物語千年紀」という企画で盛りあがり、まもなく11月1日が「古典の日」に定められました。
このうち『千年の恋』が京都太秦の映画村で撮影された時、監督助手をしておりました京都産業大学の卒業生から一部分の時代考証を頼まれ、わずかなお手伝いをしたことがあります。その際、撮影現場を見に来ないかと言われました。あの時に光源氏を演じたのが天海祐希さん、明石入道役は竹中直人さんでした。この光源氏と明石入道を撮影する場面を見て、いろいろ学ぶことができました。
映画を撮影するというのはこういうことなのか、寝殿造や衣装の考証をして、いろんなしつらえなどに大変な工夫・努力をしておられます。文字の上だけで見てきた平安貴族の姿を映像化するにはこれほどの工夫努力がいることを、初めて知りました。
私は50年ほど前から宮廷文化とりわけ宮廷儀式の文献研究をしてきました。それをリアルに理解できるようにしようとすれば、このような映像として、イメージできるような努力をすることも、大いに意義があると感じました。
この映画にも今回のドラマにも出てくる天皇の御所は、内裏とか禁裡と申します。それは中世から焼失して現存しません。平安時代の本来の「内裏」は、現在の千本丸太町一帯に広い官庁街「大内裏」があり、その北隣にありました。
ただ、それとは別に史料に出てくる御所があります。これは天皇の后妃が出産と育児のため実家へ移って暮らすうちに、そこへ天皇が訪ねて来られて暫く生活を共にされることも多くなりました。そこを「里内裏」と申します。
その代表的な一例が、今年のドラマでも主要な舞台となっている藤原道長の「土御門邸」にほかなりません。その場所は現在の京都御所と東隣の京都迎賓館あたりです。しかも、その東の寺町通りにある廬山寺あたりに、紫式部の住んでいた実家がありました。ですから、道長と式部は、近くにいて、よく行き交うこともできたと思われます。そんな光景を想い浮かべながら、京都御苑を散策してみられたらいかがでしょうか。
この土御門邸は、一たん衰退しましたが、鎌倉時代に再建されました。そして南北朝期に入った建武3年(1336)ここで北朝の光明天皇が践祚されてから「土御門内裏」と称されるようになり、それが室町時代~江戸時代から「内裏」(禁裡)と称され、明治以降は「京都御所」と呼ばれ今日に至っています。
ただ、その内裏=御所も、江戸時代に何度も火災に遭っております。しかもそれを再建するたびに少しずつ変わっています。現在我々が見ることのできる御所は、幕末の安政元年(1854)に焼失し1年半後に再建されたものです。その大部分は天明8年(1788)の大火により従来の内裏が焼失した際、光格天皇の熱意と老中松平定信の協力によって、可能な限り平安時代の内裏様式を復元する再建が行われており、それを忠実に引き継いでいます。そのおかげで今も平安の内裏の俤を偲ぶことができるわけです。
この御所はもちろん大事なのですが、その周辺にあった皇族や公家の屋敷も大切です。これについては先ほどご紹介がありましたし、いただいた資料の中にも良い平面図が入っております。その平面図を見ますと、御苑の西南の隅に「閑院宮邸跡」があります。現在の建物は本来の宮邸跡に一部を復元したものですが、その展示室に出土遺物や関係の絵図・地図などを展示されています。しかも、その展示室が最近大幅にリニューアルされ、最新の技術を使ったシアター室では、高度に精細な8K映像によって公家町の復元像や御苑の自然を観て楽しむことができます。
このような素晴しい展示室などの備わっている閑院宮邸跡などは、ぜひ多くの方々にご覧いただけたらと思います。ところが、先ほどお示し下さった「都草の京都御苑ツアーガイド」参加者の集計をみますと、やはり年配の人が多く、40代以下の人が非常に少ない。もちろん、年配の方にご理解いただけることはありがたいことです。けれども、できれば小学生・中学生、あるいは高校生など若い子たちが、修学旅行に来たら、まず京都御所と京都御苑に行って、その後で関係のあるところを回るようにしてもらいたい。しかしそのような状況が、まだ十分にできておりません。それを実現するには、いろいろな工夫を要すると思いますが、皆さんのような有志の役割こそ重要だと考えています。(続く)
※本講演は令和6年(2024)12月24日に立命館大学朱雀キャンパス大ホールにて行われた「京都御所・御苑歴史散策ガイドツアー十周年記念「京都御苑の魅力を、未来へつなぐ」」で行われたものです。
講演会の主催であるNPO法人京都観光文化を考える会・都草、明日の京都 文化遺産プラットフォーム、協力を得ました環境省京都御苑管理事務所 一般財団法人国民公園協会京都御苑、後援を頂いた文化庁・京都府・京都市 京都商工会議所・古典の日推進委員会・京都新聞とともに、講演の文字起こしに協力いただいたNPO法人京都観光文化を考える会・都草 特別顧問 坂本孝志氏に感謝申し上げます。