京都御苑の真価、みんなで再発見(2)―近代京都の御所・御苑-

(前回より続く)

京都御所と御苑で博覧会を開催

広い京都御苑には、最前もご紹介がありましたとおり、閑院宮邸以外にも、五摂家の一つである九条家の「拾翠亭」とか世襲親王家の桂宮邸跡なども保存されています。さらに京都御所の中にある「東山御文庫」という格別な図書館は「勅封」の御物でありますから、天皇のご聴許がなければ拝見できないお手元品という扱いになっております。ただ1年に1回だけ、10月下旬から11月の初めに虫干しをされます。その機会に研究者ならば申請手続きをとって許可されたら見せてもらえることになっています。私は大学院の頃から何度も伺っております。

この京都御所も京都御苑のあたりも、明治2年(1869)天皇が東京へ移られて、役割が一変しました。これを機に京都が本来の都でなくなったわけです。「都」というのは天皇がおられてこそ、その住居として宮殿があるからこそ、「ミヤコ」(宮のある処)と言いえたのです。しかし、その主が居られなくなりましたので、急に(さび)れることになったのです。

念のため、江戸時代は、いつまで続いていたかというと、明治4年(1871)の廃藩置県まで、いわゆる幕藩体制の藩が存続していました。その廃藩置県前後から、従来のお公家さんとか大きな商家などが東京へ移ってしまうということになったのです。そのために、寂れ始めた京都を何とかしようというので、当時の人が考えたのは博覧会を開催することでありました。
ご存じの通り、19世紀から20世紀は、まさに「博覧会の世紀」と言われるほど、世界各地で博覧会が行われました。この京都でも日本国内でも、いろんな博覧会が行われるようになったのです。

来年(令和7年)には、大阪で2回目の「万国博覧会」が開催されることになっています。私は昭和45年(1970)の万博を家族と一緒に見物しましたが、博覧会というのはいいですよね。そこへ行くと、いろんなものが一挙に見られます。かつて京大の吉田光邦教授は、万博を「文化のカタログ化」と言われましたが、確かにその会場でいろいろな文物を一目で観ることができます。

そのような博覧会が本格的に開催されるようになったのは、19世紀の中頃です。それを知った幕末の15代将軍徳川慶喜は、慶応3年(1867)パリ万博に弟の徳川昭武を派遣して、日本の名器を展示しました。すると、日本の漆器や浮世絵が大好評をえて、それに感銘を受けた藝術家たちによりまして、いわゆるジャポニズムが盛んになります。

このように博覧会というのは、いろいろな作品を見せるだけでなくて、人と人が出会う機会でもあり、いろいろな文化の魅力を伝え学ぶ場所でもあります。そういう博覧会が盛んになってきた情況の情報を得た有志により、明治初年の京都で、勢いを盛り返すために博覧会をやろうということになります。

その第1回は明治5年(1872)西本願寺の大書院で行われました。それがまもなく京都御所と仙洞御所跡の庭園で「京都博覧会」と称して開催され、やがて「京都博覧社」という会社を作って、同6年から大正15年(1926)まで、続けています。

その間に、御所も御苑も少しずつ手入れされましたが、衰勢を止めることは難しかったようです。すると、明治10年(1877)、孝明天皇の十年祭に京都へ来られた明治天皇は、京都がだんだん寂れていくことを非常に心配され、これを何とか保存する必要があるということを強くおっしゃった。そこで、毎年かなりのお金を下賜されることになりました。そのおかげで、御所も御苑も整備を行えることになったのです。

それから博覧会もかなり長く続くのですが、とりわけ、明治28年(1895)政府主催の「内国勧業博覧会」が京都で行われたことは、京都が勢いを盛り返す大事なエポックになったと思われます。

その背景を申しますと、京都御所と御苑を復興するために具体的に動いたのは岩倉具視であります。岩倉という人には毀誉褒貶がありますけれども、私は総合的にみて偉い人だったと考えています。

岩倉具視 肖像 『近世名士写真』其1,近世名士写真頒布会,昭10.
国立国会図書館デジタルコレクション

岩倉具視の建議と平安神宮の創建

岩倉具視(1825~1883)は、京都の下級公家でありましたが、優れた見識の持主です。とりわけ明治天皇のご意向を受けて、京都御所をはじめ京都を復興するために、皇室で最も重要な儀礼である将来の即位礼・大嘗祭を東京でなく京都で行えるようにすべきだ、という「京都皇宮の復興に関する建議」を明治16年(1883)正月に提出しています。それのみならず、本当にできるかどうか、実地検分するため、同年夏、すでに病気を抱えておりましたが、わざわざ東京から京都に来て、かなりの期間滞在しながら、即位礼と大嘗祭をやるならば一体どこで何ができるか検討したのです。

その時は多くの皇族も外国代表も国内要人も来られますから、一流の旅館とか食堂などが必要です。その上、即位礼と大嘗祭の期間、東京の政府や議会なども京都に移す場所を確保しなければなりません。そういう調査に来て、かなり具体的な計画を立てたのです。

その時に考えられたのは、この京都が本当の都になりえたのは、桓武天皇が都を遷してくださったおかげだから、桓武天皇を祀る神社をつくるべきだということです。これは既に明治6年(1873)地元の有志が桓武天皇の「宮殿(神社)御建営の儀」を府知事に願い出て、それが同9年に岩倉のもとへ届けられていた要望を採りあげたものとみられます。

それを承けて、岩倉は大宮御所あたりに桓武天皇を祀る神社をつくり、しかも「官幣大社」にするという計画を立て具体的に図面まで用意しました。残念ながら東京へ戻って、まもなく亡くなってしまうと、いろんな事情が絡んで頓挫いたします。

けれども、この構想があったからこそ、十年ほど経ちまして、京都で政府主催の第4回「内国勧業博覧会」を開催することになった際、実現することになったのです。この博覧会は、初め大阪でやる予定でありましたが、「平安遷都千百年」記念という機会だから、ぜひ京都でやらせてほしい、という京都の有志の声が盛り上がりました。これは特に近衛篤麿さんあたりを中心にして提唱され、そのおかげで明治28年(1893)に岡崎を活用して内国勧業博覧会が行われることになりました。その岡崎会場の中核に、いわばメインパビリオンとして平安神宮が「官幣大社」として創建され、今見るような大社ができたわけです。

これは実によくできていると思います。平安時代にあった宮殿の面影、特に大内裏の公的な儀式場の大極殿を模した形の拝殿を中心にしつらえ、その前庭の左右に青龍樓と白虎樓を設けるような構成になっています。これを見れば、京都へ来た修学旅行生などもリアルに平安時代をしのぶことができます。

あらためて、今なお京都が京都たり得るその元をたどっていけば、奈良にあった都を長岡に遷し、さらに京都へ遷された。その桓武天皇は、みずから都づくりの指揮をとっておられます。有名なエピソードが残っておりまして、桓武天皇は都造りの最中に京域内を見て回られ、羅城門をご覧になった時、ちょっと高過ぎて風雨などで倒れる恐れがあるから、もう少し低くした方がよいと大工におっしゃった。すると大工は、わかりましたと言っておきながら、そんなことは大して変わりないだろうと勝手に考えてそのままにしておいた。すると、もう一回まわってこられ、これが全く直されていないことに気付かれた。けれども、大工を叱責されなかったので、大いに恥入ったと伝えられています。このように桓武天皇は、都造りに細心の注意を払い成し遂げられました。その功績は、極めて大きいと思われます。そこで、この博覧会場に桓武天皇を主祭神とする平安神宮が創建されたわけです。

また、この平安神宮が創建された機会に始まったのが、今いう時代祭であります。これは当初、平安神宮の創建を奉祝するアトラクションの時代仮装行列でありました。けれども、その翌年から桓武天皇の御神霊を神輿に遷して、京都御所の建礼門前まで行き、そこから平安神宮へお還りいただく間に京都市内をご覧いただく、という神幸・還幸祭列としての時代祭になったわけです。この機会に、京都はかなり甦り賑やかになったといっていいだろうと思います。

平安神宮 大極殿

京都に於て即位礼・大嘗祭を行う

しかも、すでに明治10年代から明治天皇が念願され、岩倉具視が具体的な実地調査までしていたおかげで、同22年(1889)制定の「皇室典範」に、「即位の礼及び大嘗祭は、京都に於て之を行ふ」ことが法文化されています。それを将来実施する細則として、それから20年後の明治42年(1907)に詳細な「登極令」が公布されました。

その3年半後(同45年7月)明治天皇が亡くなり大正に入りますと、それに則って京都で即位礼も大嘗祭も行われるようになったわけです。

大正の大礼は、諒闇(服喪)明けの大正2年(1913)から準備を始め、翌3年に京都で実施される予定でした。しかし、昭憲皇太后が途中に崩御されましたので、1年延期され、大正4年(1915)11月、盛大かつ厳粛に行われました。

そのため、長くなった準備期間中に、近代的な即位礼と伝統的な大嘗祭を続いて行うため、いろんなものを用意しています。たとえば、高御座と御帳台であります。現在も京都御所の紫宸殿に置かれておりますけれども、即位礼で新天皇がお登りになる高御座、その脇に皇后用の御帳台を新しく作っています。

もちろん、高御座そのものは飛鳥時代からありましたけれども、安政の大火により焼失してしまい、直ちに復元できませんでしたから、明治元年(1868)の即位式では簡素な御帳台が高御座の代用とされました。それを更めて立派に造り直されたのです。

また、従来の即位式には用意されなかった皇后用の御座として、天皇用の高御座とほぼ同型の御帳台が新しく造られています。このように天皇用の高御座だけでなく、その脇に同型の御帳台を並び立てることは前近代と大いに違うところです。天皇即位の儀式には天皇の脇に皇后もお立ちになる。この点は、かなり進歩的な在り方です。念のため、明治以降、女性の皇后も男性の天皇と同様に「陛下」と称するようになりました。それまで皇后は殿下だったのが陛下と称されるようになり、公的な儀場で皇后も、陛下と称される以上は天皇の脇にお立ちになるようになったのです。

ちなみに、明治10年(1877)創業である森本錺金具製作所の平成初めのご当主にお聞きしたのですけれども、その先代が高御座の錺金具を担当され、原寸大の絵図面などが全部残っており、いろいろ工夫をされ、苦労をされたそうです。このような方々が、大正4年のご大礼を京都で行うために、いろいろな調度も用意されました。また大嘗祭を行うための準備もされたのです。

明治の皇室典範により、即位礼に続いて行われることになった大嘗祭は、毎年11月の新嘗祭を代始に大規模に斎行する最高の祭祀です。そのため、江戸時代には、紫宸殿の前庭に簡素な悠紀殿と主基殿という建物を建てられましたが、大正4年の大嘗宮から一段と立派な造りになりました。そのために、北山などから精選した用材で旧仙洞御所跡に造り上げられたのです。

また、大嘗祭のあとで行われる饗宴を大饗と言います。その大宴会として、当時皇室の離宮でありました二条城の中に「大饗殿」を建て、そこで行われました。

この大饗殿は、その後、岡崎にあります今の京都市京セラ美術館(京都市立美術館)の別館にあたるところへ移されましたので、その一部を偲ぶことができます。この大饗には外国の方(在日公使夫妻など)も参列しましたので、和食だけでなく洋食も用意されました。後に「天皇の料理番」と称された秋山徳蔵さんが、見事なフランス料理の腕をふるっています。まさに古来の伝統的な部分と近代的な部分とが組み合わされる形になったのが、大正の大礼であります。

この機会に京都は、御所・御苑だけでなく、京都駅も町並みもずいぶん整備され、市内に多数の来賓たちが宿泊できる旅館やホテルも続々と作られています。

なお、大正大礼に関連する事業を少し紹介しますと、いろいろなことが行われています。例えば、京大の三浦周行博士が書かれた『即位礼と大嘗祭』という総合的な解説書が、大正3年に京都府教育会から出版されました。これが全国の公的機関や学校などに広められ、即位礼と大嘗祭の理解に役立てられたと言われております。

また、この大礼を記念して、京都府教育会では、この京都で幕末維新などに活躍した志士たちの標柱を市内ゆかりの場所に建てました。今も三条木屋町辺りで見かける坂本龍馬などの石碑は、この大正大礼の後(大正5年)、一斉に建てられたものです。

ちなみに、美濃出身の漢詩人として著名な梁川星巖と紅蘭の夫妻は、江戸から京都へ移り住みました。その寓居は、鴨川沿いの頼山陽の「山紫水明邸」の対岸(川端通り)にあった「鴨沂(おうき)小隠」です。そこに「梁川星巖邸宅跡」という石標が、この大正5年に建てられました。ところが、平成に入ってからガレージにするため、いったん撤去されると聞き、地元の関係者と協力して、ガレージの片隅に建て直してもらいました。しかも、令和に入ってから、その近くに星巖・紅蘭夫妻の旅姿像と説明を刻んだステンレス製の銘板を、京阪の神宮丸太町駅北出口に建てさせてもらいました。

少し横道にそれましたが、元に戻ります。やがて昭和の御大礼は、昭和3年(1928)11月に行われます。大正と同様に、即位礼も大嘗祭もこの京都で斎行され、その機会にあらためて京都の御所も御苑も市街も、一段と整備されました。戦後になっても、天皇が各都道府県などへ公的行事に行幸されますと、道路も建物も良くなることが多いですね。

とりわけ大正と昭和の大礼が行われた京都では、天皇はじめ皇族・大礼使、内外の要人たちを迎えるために、市街も面目一新されたものです。しかも、大嘗宮として建てられた殿舎の中核部分は焼却されましたが、他の大部分は、京都市と近辺の学校とか公民館などに転用されております。いずれにせよ、京都で即位礼と大嘗祭を行われたおかげで、京都市内も大いに発展できた、といってよいと思われます。

ただ、昭和20年(1945)の敗戦後は、社会の在り方が著しく変わりました。とくにGHQの占領下では、伝統的な祭礼も行事も中止や変更を余儀なくされました。けれども、平安神宮の時代祭は、占領下でも昭和25年から復活します。その際に新しく「女人列」を加えています。多彩な女人列は比較的新しいのですが、そのおかげで紫式部も清少納言も女官姿で登場する「平安時代女人列」が、ひときわ脚光を浴びています。

また、賀茂大社の「葵祭」行列は、昭和28年(1953)、講和独立の翌年に復活されました。その時に新しく「斎王代列」が加わっています。天皇の皇女か皇孫女が選ばれる賀茂大社の斎王は、鎌倉時代の初めに途絶えましたが、これを何とか復活してほしいという声が江戸時代の終わり頃からありました。けれども、それはなかなか難しく、結果的に皇室の方を斎王とすることはできなくなりました。

そこで、代りに京都市民の若い女性を選び「斎王代」として奉仕してもらうことになったのです。この葵祭に天皇が遣わされる勅使は、古来近衛府の上級官人でしたが、明治以降は旧公家の華族から選ばれ、戦後も京都在住の旧お公家さんのご子孫などがお務めになっています。ですから、天皇が東京から遣わされる勅使(掌典)は、行列に加わらず、下上両社の社頭で拝礼されます。

ご承知のとおり、葵祭も時代祭も、行列の出発点は、御所の建礼門の前からであります。これは格別なことです。石清水八幡宮のお祭りとか、奈良の春日のお祭りにも、天皇の勅使が派遣されますけれども、行列が御所から出発するのは、この京都の葵祭と時代祭だけです。このように格別な由緒のある祭が、伝統を受け継ぎながら新しい要素も受け容れながら、毎年盛大に行われている意味は極めて大きいと思います。(続く)

※本講演は令和6年(2024)12月24日に立命館大学朱雀キャンパス大ホールにて行われた「京都御所・御苑歴史散策ガイドツアー十周年記念「京都御苑の魅力を、未来へつなぐ」」で行われたものです。

講演会の主催であるNPO法人京都観光文化を考える会・都草、明日の京都 文化遺産プラットフォーム、協力を得ました環境省京都御苑管理事務所 一般財団法人国民公園協会京都御苑、後援を頂いた文化庁・京都府・京都市 京都商工会議所・古典の日推進委員会・京都新聞とともに、講演の文字起こしに協力いただいたNPO法人京都観光文化を考える会・都草 特別顧問 坂本孝志氏に感謝申し上げます。