近世の内裏の奥向きについて

「近世の内裏(だいり)の奥向き」と称して、京都御所の御常御殿(天皇の日常のお住まいの場所)を中心にまとめていきたいと思います。

京都御所の沿革

京の都は、今から1200年前、延暦(えんりゃく)13年(794)、第50代(かん)()天皇により、奈良の平城京から京の長岡京、そして平安京へと都を移されましたのが始まりです。

そして、その都の中心となる所を大内裏(だいだいり)と申し、現在の京都御所の位置から西の方に約2㎞ほど離れた所が、都の中心でありました。現在の京都の地名では、千本丸太町あたりです。その中には、儀式等を行う朝堂院(ちょうどういん)とその正殿である大極(だいごく)殿(でん)があります。

平安神宮は大極殿を模してあり、約2/3ぐらいに縮小されて建てられています。また、節会等を行う豊楽院(ぶらくいん)とその正殿である豊楽殿(ぶらくでん)、その周りには、文武百官の諸官庁、大内裏中央東北よりに、天皇のお住まいであります内裏がございます。現在の言葉で言うと皇居です。

まず、平安京という大きな都があり、南北約5.3㎞・東西約4.6㎞、その中に北の方に大内裏があり、南北約1.4㎞・東西約1.2㎞、そしてその中の中央東北よりに内裏があり、南北約300m・東西約220mございました。天徳4年(960)9月23日に初めて内裏が焼失します。その後も、大内裏、内裏は戦乱及び火災等により、幾度も焼失いたします。

その度に再建になってまいりましたが、()(ろく)3年(1227)4月22日、すなわち第86代()堀河(ほりかわ)天皇の時ですが、それ以降は、内裏は再建されることはなくなり、天皇は臣下等の邸宅を仮の内裏と定めてお住まいになります。これを(さと)内裏(だいり)と呼びます。実は、現在の京都御所も里内裏の一つで、土御門(つちみかど)東洞院(ひがしのとういん)殿(どの)を伝えたものです。

現在の京都御所地に天皇のお住まいが定まりましたのが、南北朝時代の元弘元年(1331)9月20日、北朝初代(こう)(ごん)天皇の時からです(北朝2代光明(こうみょう)天皇の時、建武4年(1337)の説あり)。そして、明徳(めいとく)3年(1392)南北朝が統一され、歴代の第100代()小松(こまつ)天皇(北朝第6代)へと受け継がれており、第122代明治天皇御年17歳、明治2年(1869)3月7日までお住まいになりました。

現在の地に天皇のお住まいが定まりましてからも、火災等によりまして幾度も焼失しており、そのたび再建・御造営になります。その幾度もの御造営の中で、最も有意義な御造営は、第119代(こう)(かく)天皇の時、天明(てんめい)8年(1788)、天明の大火により内裏も焼失した時のものです。その時の再建は、徳川11代将軍(いえ)(なり)公が、老中松平(まつだいら)越中(えっちゅうの)(かみ)定信(さだのぶ)に命じ、当時蟄居(ちっきょ)中であった、有職(ゆうそく)故実(こじつ)の大家(うら)(まつ)()(ぜん)(光世)の書『大内裏図考證』を参考にし、再建・御造営されました。寛政(かんせい)2年(1790)のことであります。これを寛政の御造営と呼んでおります。

この寛政の御造営は、有職故実を重んじ、平安京の古制(古制の復興)に(のっと)って、紫宸殿(ししんでん)清涼(せいりょう)殿(でん)飛香舎(ひぎょうしゃ)等が再建されました。そして、その寛政の内裏も、第121代(こう)(めい)天皇の時、()(えい)7年(1854)4月6日、この御所の東南にあります、大宮御所からの出火により、焼失します。

この時の再建・御造営は、徳川13代将軍(いえ)(さだ)公が、孝明天皇の勅命を受け、老中阿部(あべ)伊勢(いせの)(かみ)正弘(まさひろ)に命じて再建されました。安政2年(1855)11月23日のことであります。これを安政の御造営と呼んでおります。この安政の御造営も先の寛政の御造営と同じように、平安京の古制に則って再建されました。

現在の京都御所は、この安政の御造営の時の建物がほとんど残っており、平安時代の寝殿造(しんでんづくり)の様式、鎌倉時代の主殿造(しゅでんづくり)の様式、室町時代の書院造(しょいんづくり)の様式の建物等があります。

御造営の度に大きくなり、慶応元年(1865)~慶応2年(1866)2月以降、現在の形となりました。現在は土御門東洞院殿(4363坪)の約8倍です。

また、現在の京都御所の広さですが、3万3400坪(110,413.2㎡)でございます。(南北東側446m、西側450m、東西北側244.5m、南側248.5m)

京都御所を半分に割りまして、南側は公(晴れ)の部分、これを表向きといい、北側は私的な部分で奥向き(())といいます。
その北側の部分、すなわち奥向きにつきまして、書きたいと思います。

奥向きというのは、天皇の日常のお住まいの場所で、京都御所の御常御殿を中心としました北側の部分をいいます。

御常御殿は、(てん)(しょう)度の御造営(1589~1591)の折、天正18年(1590)に独立して建てられたのに始まります。部屋は15室あり、床下には湿気を取る工夫がされており、炭が引きつめてあります。

なお、御常御殿は、昭和16年(1941)の皇后(良子・香淳皇后)行啓以後、行幸等の使用はありません。屋根の葺替(ふきかえ)は昭和8年(1933)、同35年(1960)、平成7年(1995)11月~同10年(1998)3月に行われました。

まず、それぞれの部屋ですが、南側には公的(晴れ)な用途の部屋があり、東側には私的(褻)の部屋があります。中央には寝室、西側には女房達の控えの間等があります。

〈南側〉

上段(じょうだん)() 18帖

主上の表御座所、正面(かまち)に接した2帖と、すぐ後ろ東北の2帖の(あつ)(じょう)は、少し高くなっています(大紋高麗(こうらい)(べり))。前の中央が、主上の座です。筋違いの後ろが、御棚代(おたなしろ)として、神仏の守札等が置かれました。「御沈(おしずみ)(でふ)(じょう))」又は「シヅメの御畳(おじょう)」と言います。(シヅメ≒おさえる)
二重天井。

中段(ちゅうだん)() 18帖

摂家その他高級貴族の座です。天盃を賜ります。
二重天井。

下段(げだん)() 18帖

公家が拝謁する座です。内々公家は畳を用いますが、外様公家は畳を取り除き(さし)(むしろ)を用いました。そのため、床は(ぬぐい)板敷(いたじき)です。
親王・摂家(親王・摂家門跡)・大臣・公家等の内々の拝謁・参賀・天盃を賜りました。

※内々・外様公家
藤原姓を名乗る公家を内々、それ以外の源・平・橘姓を名乗る公家を外様といった。ただし、宮中の席次、作法のほかには、()したる区別はなかった。
※親王門跡
宮門跡とも言う。親王及び諸王の法統を継いだ寺院
※摂家門跡
摂家の子孫の入室居住の寺院(五摂家……近衛・鷹司・九条・二条・一条)

(さし)(むしろ)

()水尾(みずのお)院の時、年中行事正月7日の條に、
「日野、烏丸、柳原は外様なれど、常御所にて御対面有り、誰にても申しつぐ御礼申して後、差筵に候す。御廂の(ひつじさる)(南西)の畳一帖を徹して差筵一枚敷く、この差筵、正月朔日より敷きて正月中有るなり、年頭に禁中に摂關衆の御礼は、差筵と云ひて、その御礼申さるヽ畳を一帖裏がへす、その上にて御礼なり、是をサシムシロと云ふ畳のうらとぢてあり、地下の書院畳のうらの念入りたるうらの様なるものなり、このうらかへすが規模なり摂關の外は常の畳の上の事なり、然るに勧修寺と柳原とが𦾔例(きゅうれい)にて差筵の御礼なり、柳原別して規模とす日野も其の通りなりと見えたり。」

(『安斎随筆』原文まま)

黒木の梅

御常御殿の南庭(西側)に黒木の梅(紅梅)があります。花は花弁の重なった厚い大輪で、色は濃紅色、(つぼみ)の時は濃赤紫色で、花付きはよく開花は3月下旬で、元来この梅は、九条家跡に白い花の咲く白木の梅と共にありましたが、大正の大礼の時、現在の位置に移植されました。しかし、その木は枯れてしまい、今の木は2代目です。

この黒木の梅は、英照皇太后が幼かりし頃お育ちになられた九条家で愛された梅であり、また古くは霊元(れいげん)天皇の御愛樹でもあったと伝えられています。黒木とは、蕾の色が紅紫色で黒っぽいことから名づけられました。

剣璽(けんじ)() 9帖半

三種の神器のうち御剣・御璽を奉安する所です。床下に炭が敷いてあります。正面は、帳台構になっています。内部には、(つり)(どう)(ろう)を下げる金具があります。二段の小襖(こぶすま)の押入と、南側に畳1帖の押入があり、剣璽は南側の押入に奉安しました。北側棚の上段には、御引帷(おひきとばり)の箱を納めます。下段には、御掃除道具を置きます。元来剣璽は、主上と同殿・同床とされ、主上の御側近くに置くものとされていましたので、この間も主上が剣璽と共に休まれた名残を残すために広い部屋となっています。実際に剣璽が奉安されている時は、入口に錦で作った御引帷を掛けます。押入の中は、小紋高麗(こうらい)(べり)の畳の上に、牡丹唐草の厚畳を敷き、白木の案上に奉安しました。

帳台構・襖の紐の引き手は平成18年(2006)11月17日に新調されています。

※剣璽動座
昭和21年(1946)以降中断。昭和49年(1966)秋に伊勢神宮行幸の折に復活
平成6年(1994)3月28日~3月29日伊勢神宮行幸
平成26年(2014)3月25日~28日伊勢神宮行幸
御引帷(おひきとばり)
「表萌黄地雲龍模様唐錦四帖中朽葉色羽二重下ケ紫羽二重八幅宛丈曲尺五寸幅七尺四寸但シフキ共。」(安政度)
現在の物は表赤地なり
※御下紐
「表紫羽二重金銀菱形ノ下タ茜モミ真中ニ縫目アリ丈曲尺七尺五寸幅二寸宛。」
御小紐
「真紅唐糸四ツ打上ヨリ二寸下リニ付ル但シトンボ結。」
「紫羽二重折返シ三寸練繰白紫花色段染タクボクニテ結フ。」
御下リ紐
「白羽二重二枚重ネ真中ニ縫目アリ。」

〈東側〉

(おち)長押(なげし)の間 9帖

御常御殿の東南に位置し、奥進(奥新)廊下につながります。下長押(なげし)の分だけ低くなっていることから、この名があります。
行幸等のため、主上が御常御殿より出御される時、この間に命婦(みょうぶ)が侍り、剣璽を捧持して主上に付き従ったとされます。なお、日常生活に供された事はありませんでした。
画は山水で、国井(くにい)(おう)(ぶん)によるものです。

御小(おこ)座敷(ざしき)(しも)() 10帖

主上の私室の一つです。
画は和耕作で、塩川(しおかわ)文麟(ぶんりん)によるものです。

御小(おこ)座敷(ざしき)(うえ)() 10帖

歌道御伝授、和歌御当座、管弦等が行われました。また笛・琴その他の芸事や稽古事も行われました。
近世にはこの間で政務を執られました。御茵(おしとね)があります。
関白との拝謁が行われました。その際の主上の衣裳は、御緋切袴・御金(おきん)巾子(こじ)冠・御小直衣です。御緋切袴は通常よりも長めのものでした。
画は和歌の意で、中島(なかじま)(らい)(しょう)によるものです。

(いち)() 15帖

主上の御居間です。日々三度の御膳は三方にて奉ります(3台)。日没後は(しょく)(だい)蝋燭(ろうそく)を点じ、これに雪洞(ぼんぼり)を掛けます。雪洞は、木で枠を作り白紙を張ります。冬季は宣徳(せんとく)の火鉢を置きます。炭は、孝明天皇の御時には香炉炭と称する物を用いました。
南面に御机を置き、御茵を置きます。白羽二重の御衣に緋(紅)の切袴を召します。御床には、御金(おきん)巾子(こじ)冠を置く。
二重天井で、畳が敷いてあります。床下も二重床です。中には籾殻(もみがら)を入れます。床柱は、(うずら)木目(もくめ)の檜で、日光山麝香沢(じゃこうざわ)の産です。
正月には皇后と祝宴が行われます。また新茶口切が行われます。

画は、朗詠の意で、狩野(かのう)(えい)(がく)によるものです。袋棚の小襖の画は、奈良八景(猿沢の月・春日野の鹿・東大寺の鐘・三笠山の雪・南円堂の藤・佐保川の蛍・雲居坂の雨・轟橋の旅人)で、こちらも狩野永岳によるものです。

()() 18帖

毎朝身支度を整える場所で、周りを屏風で囲っています。孝明天皇の時代には、北の花壇に花が咲く頃は、時々この間にて夕食を摂ることがありました。
二の間は主上の食堂になることもありました。その場合、主上は南面して中央に着座しました。北(北縁座敷)に2台の二階(にかい)(だな)を据え、献立を整え典侍(ないしのすけ)の給仕によって召し上がられました。そのほか御内祝御膳等もありました。
また、内々門跡、尼門跡との御拝謁も行われ、天盃を賜ります。

※雉子酒……別品を以て代えていたが、明治2年正月2日は雉子を使った。茶碗の中に焼豆腐2切れを入れ、温酒を差して臣下に賜ったもの。本来雉子肉の焼いた物を用いたが、物品が自由に手に入らなくなった時代には焼豆腐を以て雉子の代わりとした。

大文字の折には、この二の間から御覧になられたため、大文字の間ともいいます。

また、雨儀の御日拝(ごにっぱい)所にも充てられました。孝明天皇崩御の折には、殯宮(ひんきゅう)(もがりのみや)に充てられました。
毎朝(にょう)()方より、御茶の献上があり、主上は御一人方の御茶を召し上がられました。主上が召し上がられた御茶を献上した女御は、その夜主上のお側に伺候(しこう)することができました。

画は花鳥で、岸岱(がんだい)の手によるものです。孝明天皇崩御後は、鶴沢(つるさわ)(たん)(しん)が描き直しました。慶応3年(1867)11月7日の移徙までに書き換えられています。〔置都棄部・奥棄戸(おきつすたへ)〕

孝明天皇の慶応3年(1867)1月10日、御棺奉安、入棺の儀は清涼殿で行われました。

(さん)() 15帖

典侍(ないしのすけ)が伺候した所です。明治以降、行幸啓の折には御寝室として使用しました。
画は、和歌の意で、円山(まるやま)(おう)(りゅう)によるものです。
三の間には、孝明天皇の時代、准后の伺候がありました。その際は小屏風を立て、御煙草盆を置き、御机を置きました。御茵は用いませんでした。
儲君御参の時には、この間にて御菓子を賜りました。

(つぎ)() 15帖

典侍(ないしのすけ)掌侍(ないしのじょう)が伺候した所です。明治以降、行幸啓の折には皇后宮御化粧の間として使用されました。
画は、宇治川の景で、長澤(ながさわ)蘆風(ろふう)によるものです。

申口(申之口)の間(もうしのくちのま・もうすのくち) 

30畳と18畳(元は24畳)の2部屋あり、命婦(みょうぶ)が伺候した所です。この部屋で、女官がかるた遊びなどに興じ、主上が一緒に御覧になることもありました。女官の申し合わせなどが行われました。明治以降、行幸啓の折には常侍官の伺候としました。
画は、30畳の方が常磐(ときわ)()に猿で、中島(なかじま)()(よう)によるもの、18畳の方が谷川に熊で、(きし)連山(れんざん)によるものです。
小さい方の部屋は、主上が御休みの時の命婦の控えの間(宿直室)に充てられていました。

中仕切(なかじきり)()

元は申口二十四畳の間でしたが、明治16年(1883)に襖6枚で区切り6畳の部屋を設け御召替所としました。よって申口18畳となりました。
画は、谷川に熊(仕切り6枚)で(きし)竹堂(ちくどう)によるものです。

主上は、御自身では寝具を持たれず、主上の寝具はその夜の御用を受けた女御の方で用意をすることになっていました。そのための運搬に使用する長棹(長持)等を納める所に使用した部屋です。

また、夜には命婦が不寝番をし、その日に伺候した女御のことなどを書き記しました。その日記を『御湯殿(おゆどのの)上日記(うえのにっき)』といいました。命婦の宿直室である中仕切の間がない時は、申口の間が充てられていました。

主上によっては、昼間御寝の間に女嬬(にょうじゅう)などをお連れになることもありましたが、御所においては、『御湯殿上日記』によって、主上との交わりが確認されなければ、子を宿して産んでも、御子としての待遇は受けられませんでした。

御前へ献上物などを取次ぐことを「申」といい、女嬬は板敷きで、御縁座敷の命婦に取次ぎ、命婦がまた申口の座敷で掌侍(ないしのじょう)に取次ぎ、典侍(ないしのすけ)が御前に進んで申し上げます。

※女官の官名

尚侍(ないしのかみ)典侍(ないしのすけ)(すけ・てんじ)・掌侍(ないしのじょう)(ないし)・命婦(みょうぶ)女嬬(にょうじゅう)

 勅任官……典侍 奏任官……掌侍 判任官……女嬬

御清(おきよ)() 10帖

神事・祭事が行われる前日の夜、主上は御寝の間にて御休みにならず、禊斎後はここで御休みになりました。明治以降、行幸啓の折には主上の着替所に充てられました。

画は、住吉の景で、(よし)()元鎮(げんちん)によるものです。

御寝(ぎょしん)() 18帖

御格子(みこし)()ともいいます。主上の御寝室で二重天井・二重床になっており、桐の落とし箱の中に籾殻(もみがら)を入れ上に美濃(みの)(がみ)を重ねて置きます。また、床下の部屋の周りは、かめばらになっており、鉄格子がはめてあります。

主上は、東枕(南枕説あり。『京都御所取調書』)にて御休みになり、枕元には屏風等の(しつら)えもありました。同じく枕元には、犬筥(いぬのはこ)と称し御用の紙を入れた張子(はりこ)(いぬ)も置かれました。

主上の御格子については、(おもて)御格子(みこし)といいます。

主上の御休みを告げる時間は9時で、実際の御休みは10時頃といわれました。主上が御休みになると、それまで使用されていたローソク(ガラスの火屋(ほや)付の燭台)を、行灯(あんどん)(明治時代は菜種油の灯心)に替えました。孝明天皇の時代には、蝋燭(ろうそく)の燭台に雪洞(ぼんぼり)(白木の六角形の枠に紙を張ったもの)を懸けました。

夜の御東司(おとんす)(便所)になる時は、典侍(ないしのすけ)1人、御差(おさし)1人、各人雪洞を持って供奉しました。この時に前後に供奉するのは、主上の影を踏まないためです。御差は御東司の中に入り御始末をしました。

この部屋と申口三十畳の間をつなぐ部分の襖障子(御寝の間北西側)を「なかどろ」(仲人口・中戸口)と言い、夜の御用の方はここより参入しました。伺候する御方に付き添った人を仲人(なこうど)と称しました。

天井は二重天井で、畳を敷き、中央の梁の上には不動明王曼荼羅図(十二天曼荼羅)の掛軸があり、箱には「文化十五年(1818)大阿闍梨(あじゃり)眞應」と書かれてあります。また、東(帝釈天(たいしゃくてん))・西(水天(すいてん))・南(焰魔天(えんまてん))・北(毘沙門天(びしゃもんてん))・北東(火天(かてん))・北西(風天(ふうてん))・南西(羅刹天(らせつてん))の7ヶ所〔北東(伊舎那天(いしゃなてん))は北東の箱に一緒に入っている〕には、不動明王と十二天の尊像画が吹き流しに描かれています。

画は群鶏竹菊で、(はら)在照(ざいしょう)によるものです。孝明天皇崩御後は、竹に虎で土佐(とさ)(みつ)(ぶみ)が慶応3年(1867)11月7日の移徙までに描き直しました。

申口(申之口)の板間(もうしのくちのいたま) 

取次所です。御常御殿よりの畳敷きの場所は、献上品を置いた所です。

(おとこ)(ずえ)……向東侍(こうとうざむらい)(60歳以上の老人の侍)が控えた場所

御三間の西に鍵番所の囲炉裏の間(現在なし)があって、そこに御錠口があり、そこから男は進めなかったが、側近のことにも関与するため幕府は幕臣を、その御錠口の中まで入り込ませ、男居という部屋を特に設け、ここに老侍が詰めていた。この部屋より奥は、女嬬が取次をした。

そこに居られる女房方々は、御所(ことば)を使用します。別名女房(ことば)、隠語といいます。

起源は、応永27年(1420)『海人(あまの)()(くず)』に記載があります。

食物に関することが多く、直接言うとはしたないという気持ちがありました。

〈現在でも残っている主な御所詞〉

くこん≒酒、おひや≒水、くご≒飯、うちまき・およね≒米、おくま≒御供え米、おこわ≒赤飯、おむすび≒おにぎり、おじや≒雑炊、おかゆ≒粥、すもじ≒寿司、かちん≒餅、おまん≒饅頭、そもじ≒そば、ほそもの≒素麺、おから・うのはな≒豆腐かす、おかぼ≒かぼちゃ、おしる≒汁、おまな≒魚(さばく板をまな板)、おかか≒かつお、おひら≒鯛

おとう≒便所、おあし≒銭、おつむ≒頭、おてなし≒月経、おなら≒屁

台盤所

食事などを整えるところで、現在の食事を作る所を台所といいます。そこで働く女性を女房といいます。宮中での女房は現在の女房とは違います。

御湯殿

お風呂を御湯殿といいます。主に三番目の典侍(ないしのすけ)がお世話をしたため、「さんすけ」という言葉ができました。

明治天皇の奥向き

明治天皇の起床は午前6時で、起床の10分前に宿直(とのい)舎人(とねり)が寝殿の雨戸(約1寸角の(きつね)格子(ごうし))を開き、女官((ごん)(てん)()(しょう)()(ごん)(しょう)())が火鉢に檜造りの(やぐら)(おお)いをかけたもので暖めておいた御衣に着替え、厠に入ります。御手水は、消毒し、幾度となく白()二重(ぶたえ)にて()した冷水を用います。極寒でも湯を使うことはないといいます。皇后(昭憲皇太后)は湯を用いることもあったそうです。

天皇は朝風呂を常とし、白羽二重で濾した後に沸かし湯としたものを更に幾度も濾し、塵一つ澱まぬようになったものを檜造りの桶に汲み取って湯殿近くに運び、御前係の女官(判官)が受取って湯殿の入口まで持行き、命婦(みょうぶ)が受け取って湯殿に入れます。命婦が湯加減をした後、(ごん)(てん)()(しょう)()もしくは(ごん)(しょう)()がその旨を天皇に知らせ、入浴となります。背中を流すのは(ごん)(しょう)()か命婦で、入浴後は(ごん)(てん)()(しょう)()あるいは(ごん)(しょう)()が捧持する麻2枚重ねの「御湯上り」にて身体を拭かせ、着替えます。女官が黒塗りの湯涌より菊の紋章のある茶碗に湯を注いで捧げ、(つの)(だらい)を御前に据え、これで口を(すす)ぎ、女官が捧げる直径2尺程の盥で顔を洗い、髪を(ごん)(しょう)()か命婦が整えた後に御座所に帰ります。なお、皇后は天皇より30分程早く寝殿を出るのを常となし、後の身の回りは天皇と同様ですが、夏季には毎朝入浴をされたそうです。入浴後の髪は命婦があたり、化粧がすめば洋装が一般的で、運動後に天皇のご機嫌伺いをします。

7時に賢所参拝、8時前後に朝食、休息後の9時に侍医の診察を受けた後、(だい)元帥(げんすい)服に着替え、10時に表御座所に出御し、国務を処理します。正午に居間に戻って昼食、その後再び表御座所で政務を総覧します。午後7時30分か8時頃に皇后と共に夕食、その後談笑します。この時人民より献納の書冊などを閲覧します。10時30分から11時の間に寝所に入るそうです。

「お早番」「おゆるりさん」

宮中大奥に奉仕する女官は、典侍、権典侍、掌侍、権掌侍、命婦、権命婦等の階級に分かれ、その中に御服掛、御膳部掛、御道具掛等の諸役があり、その下に仲居、雑仕(ざっし)(ざふし)等というような者がおり、それらの総数は100余名にのぼったそうです。この呼称は、典侍が「スケサン」、権典侍が「ゴンスケサン」、掌侍が「ナイシサン」、権掌侍が「ゴンナイシサン」と称され、同じ官名の場合はその上に本姓か源氏名をつけました。大正天皇の生母柳原(やなぎわら)愛子(なるこ)早蕨(さわらび)の「スケサン」、小池道子を柳の「ナイシサン」などと呼んでおります。

この女官の称号は、新樹(高倉寿子(としこ))、花松(千種(ちぐさ)任子(ことこ)は、第三皇女滋宮(しげのみや)・第四皇女増宮(ますのみや)の生母)というような二文字名が華族出身者で、柳、(あふち)(中山栄子)などの一文字が士族出身者で、出身の族籍によって分けられていたそうです。この称呼は、上級の女官同士のもので、その下の者は上官に対しては「旦那サン」を以てし、「旦那サン」より部屋子を呼ぶには「誰それの針女(しんめ)(針命)」と言うのが常でした。

この「旦那サン」といわれる者は、毎日毎夜の交替でそれぞれの勤務に服し、午前8時に出仕して午後10時まで大奥に勤める「お早番」と、10時から翌朝の午前8時まで勤める「おゆるりさん」からなり、退出時には各御付の針女(しんめ)が時間を見計らって出迎えました。

針女(しんめ)(針命)は、毎朝5時に起床し、「旦那サン」が目覚めるまでに部屋一切の掃除、化粧道具の配列等をなし、毎日少しの遺漏なきように整頓しておきます。「旦那サン」が起床し、縮緬(ちりめん)もしくは羽二重等の座布団に座すのを待ち、先ず(うやうや)しく一礼します。それからお化粧に1時間以上を費やし、(ようや)く食膳に向かったとのことです。

女官生活では、天皇に奉仕するものとして、何よりも心身の清浄が重視されていました。そのため針女(針命)の中では、「御清サン」「御次サン」と、腰より上と腰より下に手を触れることで区別されておりました。ちなみに足袋を持った手で袴の紐を触れば叱責され、直ちにこれを清めさせたといいます。そのため「旦那サン」の御服替は針女(針命)の苦心一方ならず、その御用を務めるには膝にて歩くのが習いであったそうです。袴の紐を締めるには、長い紐を5廻りも6廻りもくるくると膝にて歩き廻らねばならず、その辛さは並大抵のことではなかったと語られています。

参考

尚侍(ないしのかみ/しょうじ)

内侍司の長官(カミ)を勤めた女官の官名です。

准位は従五位のち従三位、定員は2名。多くは摂関家などの有力な家の妻や娘から選任されました。

典侍(ないしのすけ)

四等官における次官(スケ)に相当します。

准位は従六位のち従四位、定員は4名。大納言・中納言を中心に公卿の娘が多く選ばれました。

掌侍(ないしのじょう)

通常「内侍(ないし)」と言い、四等官における判官(ジョウ)に相当します。

准位は従七位のち従五位、定員は正官4名、権官2名の計6名。

内女房(御内儀)

典侍・掌侍・命婦・女蔵人・御差で、その下に御末・女嬬・呉服所(三仲間)があり、特に典侍・掌侍・命婦は主上のお側近くでお世話をします。

幕末には、典侍は7人で、(おお)典侍(すけ)は総取締(頭)で位は従三位です。次に(しん)(おお)典侍(すけ)(ごん)中納言(ちゅうなごんの)典侍(すけ)宰相(さいしょうの)典侍(すけ)按察使(あぜちの)典侍(すけ)(しん)(てん)()今参(いままいり)他に(そちの)典侍(すけ)(こうの)典侍(すけ)(ごん)典侍(すけ)があり、時により変わります。

典侍は、家格が()(りん)()名家(めいか)の娘が上がります。典侍は最初から典侍で、掌侍(内侍)からの昇進はあり得ません。

掌侍(内侍)は、羽林家・名家以外の有位・無位の家格から出ます。(こう)(とう)掌侍が第一で、兵衛掌侍・衛門掌侍・小式部掌侍・大輔掌侍・新掌侍・今参などの名があります。勾当掌侍は長橋局といい、位は五位で、口向に対する力は絶大です。御使いは、御内儀⇒諸方⇒長橋局⇒執次⇒使番と伝えます。

諸方から出す御文は長橋局の名を以て出します。諸方からの献上品は、奏者番から右京大夫を経て長橋局に上がります。そのため、外に対しては一番権力があります。勾当掌侍は、口向の取締りをする職掌です(奥は大典侍である)。

命婦・女蔵人・御差は、皆国名で呼ばれます。諸大夫の家格から出ますが、社家からが多いです。

伊予が頭で、大典侍・勾当掌侍・伊予を三頭(みかしら)といいます。御代が代わってもお(いとま)にならず、次の主上に仕えます。他の女房は一代限りが常です。

御差(おさし)は、御上からの御言葉を賜っても、すぐに返事を返せますが、命婦・女蔵人などは、御言葉を賜っても、返事を返せませんでした。後に典侍・掌侍に申し上げてもらいます。

(御差≒御東司の係)

()仲間(なかま)≒女嬬・御末・呉服所(ごふくどころ)をいいます。女嬬≒御道具掛、御末≒御膳掛、呉服所≒呉服掛で、明治以降は廃止になり、すべて女嬬と称しました。

御末の頭を「尾張」、女嬬の頭を「()(ちゃ)」、呉服所の頭を「右京大夫」といいます。

御末は、板元で調理した御上の御膳を運び、自ら煮炊きした物を差し上げます。御上はこちらの方を好まれました。

呉服所は、御上の御召物を裁縫するほかに、諸方へ出す手紙の(したた)め、参内殿の設え等も行います。

女嬬は、御道具係で、燈火の油を差したり、火鉢に火を入れるなど、御上の御側で使います器具を取り扱います。

仲居茶之間≒雑仕 麻(木綿)の紅前垂を締めている。約10人

御局で召し仕える者に、針女(しんみょう)、仲居がいます。

内侍所刀自は、今の内掌(ないしょう)(てん)にあたります。賢所(かしこどころ)での奉仕、神器の看守等にあたります。

仙洞には、上臈(典侍として奉仕された方)・中臈(掌侍で奉仕された方)・下臈(命婦で奉仕された方)がおります。

参考文献

  • 藤波言忠『京都御所取調書』 宮内庁書陵部 1924年
  • 下橋敬長『幕末の宮廷』 平凡社 1979年復刻(1922年宮内庁図書寮)