葵祭について
まず、葵祭の行列を王朝風俗とか平安装束という表現がされていますが、葵祭の行列は仮装行列ではなく、その時代時代の宮廷装束が使用されてきました。
由来は、葵祭は賀茂御祖神社と賀茂別雷神社の例祭で、古くは「賀茂祭」、または「北の祭り」とも称し、平安中期の貴族の間では、単に「祭り」と言えば葵祭のことをさしていました。賀茂祭が「葵祭」と呼ばれるようになったのは、江戸時代の元禄7年(1694)に祭が再興されてのち、当日の内裏の御殿等をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉〔二葉葵(賀茂葵)〕で飾るようになって、「葵祭」の名があるとされています。(古代より、賀茂神社の神紋として使っていた二葉葵(別名・賀茂葵)が更なる由来です)
葵祭の髪につけた飾りは、葵と桂の葉をからませて作ったもので、葵桂と呼ばれるようです。また、葵は女性で桂は男性をあらわしているとも書いてあります。
いろいろな説がありますので、自分なりに調べていただければと思います。
葵祭の中心となる儀式は、明治以前は、清涼殿で東遊の一節を舞い、天皇の勅を得て出発する「出立の儀」、勅使が官人を従え御所から両賀茂社に参向する「路頭の儀」、両賀茂社で勅使が幣帛を奉る祭儀「社頭の儀」が行われていました。その翌日には「還立の儀」がありましたが、明治3年以降はなくなりました。
現在は、御車寄で「進発の儀」が行われ、建礼門の南側で「列見の儀」を行い、行列である「路頭の儀」、そして神社にて「社頭の儀」が行われます。このうち、「進発の儀」と「列見の儀」を合わせて「宮中の儀」ともいいます。
行列(路頭の儀)は、何回か中断されております。
近世(江戸時代)では、賀茂祭の旧儀が再興されたのは霊元上皇の時、元禄7年(1694)と言われております。当時は、有職故実も乱れた時代で、後に「寛永有職(識)」と呼ばれた時代です。装束については、考証的にかなり無理なところもあります。
明治になり中断され、その後、明治17年(1884)に再興され、その時に江戸時代の行列を再現しました。さらに太平洋戦争により、またしても中断され、現在の葵祭は、昭和28年(1953)に復興されました。(昭和28年(1953)に勅使列(本列)再興、昭和31年(1956)斎王代行列(女人列)が再興されます)
現在の行列の人数は、約523人が約8㎞の道のりを歩きます。御所を10時30分に出発し、下鴨神社(賀茂御祖神社)には、11時40分頃着き、社頭の儀が行われます。休憩後、14時20分に上賀茂神社(賀茂別雷神社)に向けて出発します。上賀茂神社には、15時30分頃着きます。上賀茂神社でも社頭の儀が行われます。終了は18時頃になります。
また、斎王代の行列については、弘仁元年(810)有智子内親王が初代斎王(斎院)で、建暦2年(1212)の禮子(れいし・いやこ)内親王を最後に斎院は廃絶しており、昭和31年(1956)に女人列(斎王代列)として再興され現在に至っておりますが、かなり困難を伴ったと伝えられています。
女人列(斎王代列)の装束は、昭和30年(1955)「宮中文華典」が開催され、そして昭和31年(1956)には二条城に於いて「京都文華典」が開催され、その時に展示された装束が寄贈されて有職文化協会の基本財産に組み入れられ、昭和31年葵祭女人列が再興するにあたりその装束を使用して祭りを行いました。
昭和42年(1967)から昭和51年(1976)にかけて新調及び修繕を行い、昭和45年(1975)8月には、斎王代の十二単を新調しました。
また、昭和55年(1980)8月には、新たな十二単一式三つ衣(喜多川平朗)が寄贈されました。
現在の装束は、行列協賛会・行列保存会が新調及び修繕をして、祭りを行っています。一部伝統文化保存協会の物も使用しています。
男列と同じく女列も時代的な装束考証はかなり無理なところもありますが、すばらしい宮廷装束をご覧いただけると思っております。
まず、有職故実の観点から葵祭の色々なことを少しでもたくさんの方々に、お伝えできればと思います。葵祭をご覧いただくのに、少しでもお役に立てればと思っております。
江戸時代、幕末の文久3年(1863)3月31日に、孝明天皇が下鴨神社から上賀茂神社へ行幸(鹵簿)になっておられます。その行列が葵祭の行列と似通っています。
ただ、葵祭の行列は、天皇の代わりに勅使が中心となり行列します。まさしく天皇の行幸を再現したものであります。行列の折に着ている装束は、宮廷装束であります。宮廷装束とは、天皇をはじめとする皇后や皇族及び貴族たちと、それにかかわる人たちが着た装束(服)です。
現在でも、皇室の儀式や祭祀の時には、この宮廷装束を着用します。
この宮廷装束も中世を通じていくつかの変動を見ますが、特に15世紀の後半、応仁・文明の乱〔応仁元年(1467)5月26日~文明9年(1477)11月20日〕の時には、宮廷の行事や儀式等も中絶し、装束にあっても衰退してしまいます。近世(江戸時代)の19世紀(1843年頃)、宮廷の各種伝統行事等も復興(古制の復興)し、宮廷装束も平安朝以来の姿を考証し復元されるようになりました。現在皆様方が目にする宮廷装束は、この頃に復元された形態の物です。
宮廷装束は、普段あまり見ることがございませんが、葵祭では、間近に見ることができますので、葵祭を通じて宮廷装束をご覧いただけたら幸いです。
装束について
葵祭の諸役並びにその装束についてですが、現在の葵祭に使われています装束は、大きく分類しますと束帯・衣冠単・狩衣類(狩衣、浄衣、布衣、水干、退紅、黄衣(おうえ)、雑色、如木(にょぼく)、白張、素襖)です。
女性では、十二単(五衣・唐衣・裳)、小袿・長袴、采女装束、細長(汗衫という説もあり)があります。
まず、束帯ですが、縫腋袍と闕腋袍があります。縫腋袍は文官が着用し、闕腋袍は武官が着用します。官位によって袍の色も違います。これを位当色といいます。摂関時代(9世紀後期~11世紀)に、四位以上は黒袍、五位は緋袍、六位以下は縹袍になります。
また、葵祭では特別の決まりごとがあり、官位相当の装束を着用しない場合があります。葵祭に使用している装束は、近世(江戸時代)の東山天皇の時、元禄7年(1694)に復興された以後の形です。「応仁・文明の乱」を経て、東山天皇の即位礼も略儀ながら再興され、貞享4年(1678)に行われました。また、大嘗祭も約220年ぶりに復興されました。宮廷の行事等も少しずつでありますが、復興されるようになりました。19世紀前半になると、装束も平安朝以来の姿を考証し復元されるようになり有職(識)故実も研究され、現在私たちが目にする装束等は、この頃復元された形態の物です。
また、女性の装束は、享保7年(1722)以降少しずつ再興され、天保13年(1842)~天保15年(1844)には、現在の形式に近くなりました。
女性の装束は、彩りの美しさを取り入れており、それぞれの女性の感性で色彩・配色の美しさを表現しています。
葵祭に平安時代の装束への思いを巡らしてみてはどうでしょうか。
さて、参役・諸役の装束ですが、葵祭では、官位相当(本位)に当てはまらない装束を着用しており、官位より上の装束を着用したりします。
普通は、だいたい高い官位の者が、低い官職につきます。装束は、位階に相当する装束を着ます。
なお、官位の高い者が低い官職につく場合、「行」といい、「従四位下行左近衛少将」と書きます。従四位下は近衛中将に相当します。近衛中将と少将はともに「近衛次将」であり、少将の場合の官位相当は、「近衛少将正五位下」のように官・位の順に書きます。
官位の低い者が高い官職につく場合、「守」といい、「従七位上守少外記」と書きます。少外記は正七位上に相当する官職です。
内蔵寮史生(正七位下)は、特に幣帛を扱う役目なので、緑袍(縹)を着用し、裾(約3尺5寸)も長いものを着けました。
そのほか、それぞれの役の装束と官位相当は以下の通りです。
- 近衛使(黒袍)……近衛中将(従四位下)
- 内蔵使(緋袍)……内蔵寮の助(正六位下)
- 山城使(緋袍)……上国の介(従六位上)
- 検非違使尉(朱紱袍)……大尉(従六位上)
- 検非違使志(縹袍)……大志(正八位下)
- 馬寮使(縹袍)……左馬允(正七位下)
また、このほかに下記のような役があります。
- 近衛将曹……左右近衛府の主典(従七位下)、近衛舎人(近衛・舞人・楽人)より選抜採用された
- 看督長……褐衣、罪人の追捕・牢獄の管理
- 火長……衛門府の衛士から選ぶ、10人の集団を一火というその長
行列について
参役・諸役の行列(路頭の儀)に沿って、お話をしていきたいと思います。
現在の葵祭の行列は本列の第一列から第四列、そして女人列の斎王代列を含めまして、行列を行っております。
第一列の参役は、(先導)検非違使志と尉、山城使。第二列は、(神様に供える)御幣櫃と内蔵寮史生2人、御馬2頭雨覆(水色を掛ける)と馬寮使、牛車。第三列は、(勅使列)近衛使を中心に舞人6名、替馬。第四列は、(随伴)陪従と内蔵使などの順で列立して行列します。
その後に、斎王代列(女人列)が続きます。主な列立は、火長・命婦・女嬬・命婦・女嬬・童女・斎王代・童女・命婦・女嬬・騎女(むまのりおんな)・内侍・女嬬・女別当・采女・道楽・牛車・火長です。
賀茂祭(参役・諸役)の詳細
近衛使
近衛府次将(中将・少将)が務める行列の最高位で、四位が務めました。官位相当では従四位下で近衛中将にあたります。闕腋袍を着ますが、垂纓の冠、魚袋(銀)、飾太刀をつけます。馬は、唐鞍の飾馬に乗ります。江戸時代は、輿に乗った時もあります。また、少将がなる場合もありました。
内蔵使
行列では内蔵寮次官で、五位が務めました。官位相当では正六位下。御祭文を捧持します。
山城使
行列では国司庁次官で、五位が務めました。官位相当では従六位上の介にあたります。洛外は国司の管轄で警護等に当たりました。
検非違使尉
行列では五位の者が務めました。官位相当では従六位上の大尉にあたります。上判官で、定員は4人、左右衛門大尉が兼任しました。京中の非法・非違を検察します。今の裁判官と警察官を兼ねたものです。行列及び社頭の警護にあたります。明法道家筋(坂上家・中原家)が務めました。
少尉は官位相当では正七位上にあたる下判官です。源平武士が任じられました。
検非違使志
行列では六位の者が務めました。官位相当では正八位下の大志にあたります。上主典で、定員は2人、左右衛門大志が兼任しました。京中の非法・非違を検察する、今の裁判官と警察官を兼ねたものです。行列及び社頭の警護にあたります。
法律家から選任され、雑務を担当しました。明法道家筋(坂上家・中原家)の者が任じられると「道志」と称されました。
馬寮使
行列では六位の左馬寮の武官が務めました。官位相当では正七位下の大允にあたります。のちには六位の者が任ぜられました。走馬の担当です。
内蔵寮史生
行列では内蔵寮の文官で七位の者が務めました。官位相当では正七位下にあたります。御幣物を司ります。
衛士
行列では、宮城諸門を警衛する衛門府兵士が務めました。御幣物の守護にあたります。
龓
左近将曹で六位の者(官位相当では正七位下)と右近府生(官位相当では従七位上)、近衛舎人から選びました。勅使の馬を牽く役で、本来は護衛を行います。
随身
近衛府の武官で、中将の場合4人が護衛をします。褐衣は、左側(左近衛府)は獅子、右側(右近衛府)は熊の蛮絵の摺りがありました。本来は、近衛府が獅子、兵衛府が鴛鴦、衛門府が熊と、各衛府によって識別がありました。近衛舎人から選びます。
舞人
行列では近衛府の武官で五位の者が務めました。官位相当では従六位上の将監にあたります。舞を舞いました。
陪従
行列では近衛府の武官で五位の者が務めました。官位相当では従六位上の将監にあたります。雅楽を奏しました。
看督長
検非違使庁の役人で今の警察官です。牢獄の管理と罪人の逮捕をつかさどりました。
火長
検非違使庁の役人で今の警察官です。衛門兵士から選抜された中から10人を一火として長としました。
主水司(もんどのつかさ)
官位相当では正八位上にあたります。御手水を行います。
奉行
幕府の侍で、祭りの進行をつかさどります。
奉行属
奉行の補佐です。
馬副(むまぞえ)
馬丁で、山城使に従います。
手振
飾馬の馬具などの物を持ちました。
小舎人童
勅使につく童です。
執物舎人(しつものとねり)
下僕が務めました。風流傘を持ちます。また菅葢などを持ちます。
雑色
下僕が務めました。雑役をします。
走雑色
雑色に同じ。いろいろな場所に出向きます。
舎人
下僕が務めました。雑役をします。
居飼
飾馬の鞍覆いを持ちます。
牛童
牛車の先頭に立ちます。
退紅
御幣物を入れた唐櫃の前を歩き、祓いを行います。
童
検非違使付の童で、検非違使の笏を持ちます。
調度掛
検非違使の弓・矢を持ちます。
鉾持
放免が務めました。下役で逮捕糾問などにあたります。
如木(じょぼく)
公家のお供をします。
馬部(ばぶ)
内蔵寮の御馬に従う馬飼いです。
素襖
江戸時代、幕府からの派遣された武士です。行列の先頭を行きます。列の警護にあたりました。
口取・口付(くちとり)
牛馬の轡を取って引きます。
(駕)輿丁(かよちょう)
輿を担ぐ者です。
車方
牛車の差配人です。
牛車
御所車(八葉車・杏葉車)です。
大工職
車の修理を行います。
神馬(じんめ)
走馬です。12頭の内10頭が禁裏の御馬で、他は左・右馬寮の御馬です。中宮や皇太子らも御馬を奉られたことがあります。
替牛
牛車の替え牛です。
牽馬
勅使の替え馬です。
手明白丁
雑役の役です。手があいているので、坂道などで後押しなどをします。
白丁
仕丁雑役の役で、物等を持ちます。
最後に、葵祭は、衣紋道及び有職故実を志す者には、大変勉強になる祭りであり、各位階に相当する官位相当の装束ではない物を着用している場合があります。なぜだろうと考えるのも勉強になりますので、ぜひ観方を変えて葵祭をご覧ください。また、装飾調度品などに関しても同じようにご覧いただければと思います。
葵祭をご覧になる折には、いろいろな角度からご覧いただけたらと思います。
令和2年5月15日