十二単の変遷

いわゆる十二単は、謎に包まれた装束です。その正式な名称も誕生の経緯もわかりません。平安時代には「女房装束」「()(から)(ぎぬ)」などと記されますが、いずれも正式名称ではありません。現在は「(いつつ)(ぎぬ)唐衣裳」といいますが、これは江戸時代の宮中での十二単の通称「五衣」に基づきます。

中国の唐の時代の半ばより、ゆったりした衣装が好まれ、天平時代の日本にも取り入れられます。さらに日本では床に座る生活に適するよう、裳(巻スカート)の前を開いて、下着や袴を露出する着方に変化します。こうして十二単の裳の様式に変化しました。なお、下衣も丈が長くなって袿((きぬ))に変化したのか、本来裳の上に羽織っていた長い上衣が袿に変化したのかについては定説がありませんが、裳と袴の間に重ねられる袿が、日本の女性装束の特色といえましょう。

日本服飾史《養老の衣服令による命婦礼服》参照

奈良時代 女官礼服

平安時代に入り、10世紀の風俗を反映する『宇津保物語』には複雑な重ね色目の袿の描写がほとんど無く、袿の重ねの配色は11世紀を通じて発達したことが、『栄花物語』などから窺えます。絵画資料(「聖徳太子絵伝」・「法華経冊子」)により、11世紀後半にはほぼ今の十二単に近い物が成立していたことがわかります。

日本服飾史《公家女房晴れの装い》参照

平安時代 十二単

11世紀後半から12世紀は、十二単の最盛期でした。複雑な重ねの色合いが工夫され、いわゆる重ね色目が発達します。しかし、鎌倉時代には早くも簡略化の流れが生じました。鎌倉時代にも、大きな儀式では一般の女房は(いつつ)(ぎぬ)(五領の袿)を用い、后や皇女などは時に十領余りの袿を着て、その上に裳唐衣や小袿を重ねました。しかし鎌倉時代中期以降は通常の場合、天皇に仕える女官でも、薄衣(うすぎぬ)(一枚の袿)や(ふたつ)(ぎぬ)(二枚の袿)に唐衣を着けただけの姿でした。一方肌小袖が発達し、刺繍を入れたり、三領五領と美しい小袖を重ねた上に袿をつけることが一般化し、袿は実質的な着衣から、礼装の構成具に変化します。

鎌倉時代後期より裳をつけるのは儀式の時だけとなります。すると裳の小腰を腰で結わずに、ゆるく結んでおいて肩に掛けることもおこなわれました。これが江戸時代に掛帯とよばれます。本来の小腰は細い物でしたが、室町時代前期には唐衣と色を合わせた生地を用いるようになり、一方裳の丈が短くなるなどの変化もありました。

応仁の乱後は十二単が絶えて、薄衣に唐衣だけの姿などが儀式にも使われましたが、文明17年(1485)正月、五衣・唐衣・裳が宮中で整えられて女官に貸与され、復活しました。

江戸時代前期の後水尾天皇の時代には、幕府が宮廷装束の復興を支援して、華美なものになりました。掛帯の幅を広く仕立て、華麗な刺繍を施すことが慣例になります。

日本服飾史《江戸時代前期の正装の公家女房》参照

江戸時代前期 十二単

江戸時代を通じて宮中の十二単は、公費で公家の山科家もしくは高倉家が調進して、女官に貸与されます。天保14年(1843)頃には、関白鷹司政通の主導で、宮中の十二単の復古がおこなわれ、小腰を腰で結ぶ形式が復活しました。実際に調進されたのは、弘化2年(1845)が最初で、弘化4年の孝明天皇の即位関連儀礼において本格的に使用されるようになりました。

日本服飾史《江戸時代後期の正装の公家女房》参照

江戸時代前期 十二単

近代に入り、大正天皇即位に先立ち宮内省調度寮の松本真弦らが中心になって、山科家などに諮問したうえで、即位礼での皇后・皇族・女官の装束の色目と文様を詳しく定めました。これが昭和以降も小改訂されつつ今に至ります。

日本服飾史《皇族女子盛装》参照

近代 皇族女子盛装