第11回 壮大な天平文化を具現された聖武天皇

正倉院宝物(御物)の迫力

かつて30年余り京都産業大学に勤めていたころ、毎秋の楽しみは、「文化の日」前後、奈良国立博物館で催される「正倉院展」を見に行くことであった。

そのうち、とりわけ印象に残っているのは、平成20年(2008)数回の渡航失敗で失明しながら、天平勝宝6年(754)に来日した鑑真和上(65歳)が、みずから書いたと認められる書状を初めて拝見し、その迫力に深い感銘を覚えた。

この正倉院は、周知のごとく、聖武天皇朝に創建された東大寺の宝物庫である。そこに収蔵される宝物は、聖武天皇と光明皇后の御遺愛品など数万点にのぼり、今も皇室の御物となっている。

世界の古文化財はほとんど廃墟からの「発掘品」であるが、この正倉院宝物は千二百数十年来の「伝世品」として、天平の耀きを活々と保ち続けている。

それが可能になった要因は、少なくとも二つあげられる。その一つは聖武天皇と東大寺に対する鑽仰の念であり、いま一つは歴代天皇と関係者が「勅封」の(おきて)を守り続けてきたからである。

勅封とは、宝庫の錠前に「勅」の字の紙片を巻きつけ、天皇の勅許がなければ封を開き得ない、という慎みの掟にほかならない。しかも、それが厳しく守られてきたのは、聖武天皇の御遺志を大切にせねばならぬとの思いが根強くあったからであろう。

外祖父藤原不比等の役割

聖武天皇(幼名「首」)は、大宝元年(701)、文武天皇(天武天皇の孫)を父とし、藤原宮子(不比等の娘)を母として誕生された。外祖父の不比等(中臣鎌足の子)は、持統女帝に抜擢され、藤原京で「大宝律令」を編纂して施行する際も、また(おびと)皇子の養育にも、大きな役割を果たしている。

とりわけ、慶雲4年(707)、父帝が25歳の若さで崩御されたとき、まだ7歳の首皇子は皇太子に立つことすらできなかった。そこで、主として不比等のはからいにより、首皇子の祖母(持統女帝の生母)にあたる阿閉(あべ)内親王(天智天皇の皇女)が中継ぎ役として即位され、元明女帝となられた。

その女帝のもとで人心を一新するために平城京を造営して、和銅3年(710)遷都を断行したのも、その4年後、ようやく14歳の首皇子を皇太子としたのも、ついで翌年(715)、元明天皇に続いて未婚の皇女()(だか)内親王(文武天皇の妹、36歳)を元正女帝として立てたのも、続けて翌年、首皇子と同年齢(16歳)の光明子(不比等の娘)を皇太子妃に入れたのも、さらに3年後(719)、武智麻呂(不比等の長男)を東宮傅(皇太子の教育係)に据えたのも、すべて不比等の政治力によるところが大きい。

このように首皇子は、外祖父不比等の庇護によって、父帝の早世後、十数年間、祖母元明・伯母元正の両女帝に中継ぎ役を務めてもらい、ようやく養老8年=神亀元年(724)、24歳で即位されるに至った。そのためか、聖武天皇は主体性のない藤原氏の操り人形だったように見られやすい。しかし、決してそうではない。むしろ「巨大な夢を生きる」「平城の天武たらんとした勁き帝王」だったことを、中西進氏の『聖武天皇』(PHP新書)や瀧浪貞子氏の『帝王聖武』(講談社選書)などで鮮やかに描き出されている。

帝王の大任を果たされた天皇

「聖武天皇宸筆 雑集」
(『宸翰英華』国立国会図書館デジタルコレクションより)

聖武天皇は、即位直後から左大臣長屋王(天武天皇の孫、同妃は元正女帝同母妹の吉備内親王)らの協力を得て親政に励まれた。そして神亀4年(727)、藤原光明子との間に待望の皇子(もとい)王が生まれると、僅か1か月少々で皇太子とされた。嫡長子への相続を実現しようとした迅速な布石といえよう。

しかるに、天皇はその皇太子が1歳たらずで夭逝し悲嘆に暮れていた最中、長屋王が国を傾けようと謀っているとの密告を受け、ただちに自害を命じておられる。これは長屋王の政敵(藤原武智麻呂ら)の謀った冤罪事件とみられ、そのころから武智麻呂の権力が強大化する。しかし、天皇が必ずしもそれに追従しておられたわけではない。

例えば、「天平」という年号は、左京職から、背中に「天王貴平知百年」と読みうる文様のある亀が献上されたのを瑞祥(吉兆)として改元された(729)。これは直後に光明子を夫人から皇后に立てる伏線でもあったが、天皇はその立后詔書で、従来皇族(内親王)を原則としてきた皇后に藤原氏の出身者を充てるに至った理由を懇篤に説明し、諸臣に理解を求めておられる。

また、天平3年(731)の公卿(閣僚)人事では、藤原氏とともに皇族の鈴鹿王(長屋王の弟)と葛城王(美努王の子)を登用された。この葛城王は、臣籍降下を願い出て橘姓を賜り(たちばなの)(もろ)()と称する。同9年(737)大流行した疫病のため、藤原氏の有力者(房前・麻呂・武智麻呂・宇合の四兄弟など)が没すると、その翌年から約20年間、この右大臣諸兄が天皇に忠勤を励んでいる。

さらに、天平7年(735)遣唐使の帰国船に乗って、18年ぶりに帰京した儒官の吉備真備や学僧の玄肪(および唐僧道叡や波羅門僧僊那)などを深く信頼して重用された。しばしば大陸伝来の詩宴や仏会を催すのみならず、その叡智を天下万民のために活用して、帝王の大任を果たされたのである。

大仏建立による護国・安民

その代表的な事業が東大寺の大仏建立にほかならない。聖武天皇が大仏建立を思い立たれたのは、すでに天平12年(740)、40歳の春、河内の智識寺で盧舎那仏(るしゃなぶつ)を拝されたときといわれている。

同年秋、九州で起きた藤原広嗣の反乱を平定する目途が立つと、天皇は元正上皇・光明皇后らとともに、壬申の乱(672)で大海人皇子(天武天皇)が辿られた伊賀―伊勢―美濃―近江の道を廻られた。しかも、ついで山背国の相楽郡(さがらぐん)()()(ごう)へ入って「恭仁大宮」の造営をはじめられ、さらに同14年から翌年にかけて程近い「紫香楽宮(しがらきのみや)」へ何度も行幸しておられる。

これは一見不可解なことである。しかし、その目的は、祖父帝の大気宇に学び、唐の副都洛陽の郊外にある竜門の大仏になぞらえて、平城京から一日で往復できる紫香楽を大仏建立の好処に選ぶためであった(瀧浪氏説)とみられる。しかも、その願意は、同15年(734)10月の詔に次のごとく示されている。

ここに……菩薩の大願を発して、廬舎那仏の金銅像一躰を造り奉るは……広く法界に及ぼして朕が智識とし、遂に同じく利益を蒙りて共に菩提を致さしむ(ためなり)。……但し恐るらくは、徒に人を労することのみ有りて……反りて罪辜に堕ちんことを。この故に……もし更に人有りて一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんと情に願はば、恣に聴せ。……

つまり、太陽のごとく万物を慈しむ廬舎那大仏像を造るのは、万人が仏縁を結んで菩提(悟り)に至るためであるから、それによって人民を苦労させ不幸にするようなことのないように心がけ、もし自発的に少しでも協力したいと願う者があれば、喜んで受け入れようとされたのである。それゆえ、民間の行基菩薩も勧進役に登用され活躍している。

この大事業は、その後(745年から)平城京東郊で再開された。そして天平21年(749)、陸奥国より待望の黄金が大量に献上されて大仏鋳造の目途が立つと、聖武天皇(49歳)は皇太子の阿倍内親王(32歳)=孝謙女帝に譲位され、その3年後(752)、盛大な開眼供養を行われるに至ったのである。

なお、聖武天皇は「三宝の奴」とまで称して仏教に深く帰依された(出家して「沙弥勝満」と号される)が、同時に神祇信仰も重んじられたことを見逃してはならない。

「平城京」 佐藤醇吉 筆

補注  考古学が明らかにした聖武天皇の御事績

崇仏の念が厚く、大仏を造立し、自ら「三宝の奴」と称された聖武天皇であるが、一方で神祇崇敬についても、さまざまな事業を展開されていたことはすでに田中卓氏が論じられている。

また、天平12年以降の聖武天皇の東国行幸に関しては、近年、その際に用いられた施設を含むと考えられる三重県の久留倍官衙遺跡の発掘と、その遺跡保存事業(令和2年10月に「久留倍官衙遺跡公園」として整備完了・公開)の中で、行幸のあり方が明らかにされつつある。

さらに、紫香楽宮跡と考えられる滋賀県の宮町遺跡(現・史跡紫香楽宮跡)は、「なにはつ」「あさかやま」の歌木簡が出土したことで知られるが、隣接する東山遺跡からは、平城宮の主要な建物と同規模の大型建物群跡が平成30年(2018)に発見され、紫香楽宮、あるいは大仏に付随・関係した施設と考えられている。

このほか、令和2年(2020)には京都府の史跡恭仁宮跡で朝堂院跡と思われる柱穴が見つかり、平城宮より小規模だが、天皇が出御される大極殿や政務が行われた朝堂院が存在していたこともほぼ確定している。

関係者の熱心な尽力により、考古学の調査と研究・保存が進められ、近年では聖武天皇の東国行幸とその後の恭仁京・紫香楽宮造営の詳細が明らかになりつつある。現在では行幸は広嗣の乱とは無関係に、かなり早くから計画されており、その中で聖武天皇は君主としての自覚を深められ、強い権力を発揮される準備を進められたと考えられている。

参考文献