牛車(御所車)

牛車について

牛車(ぎっしゃ)網代(あじろ)(びさし)杏葉(ぎょうよう)(くるま))は、御所(ごしょ)(くるま)とも呼ばれ、現在は賀茂(かも)(さい)葵祭(あおいまつり))の折に使用されています。

御車に関しては、『日本書紀』の第17代履中(りちゅう)天皇5年(404)に初めて記述されています。大宝(たいほう)(りょう)(701年)では、御車は貴族の料(乗り物)とされ、五位以上の者に使用が許されました。

平安時代(794〜1185)には、内親王、王、女御、四位以上の女官等が乗りました。近世は、天皇より「牛車の宣旨(せんじ)」を賜った者だけが、御車寄(おくるまよせ)まで入ることができました。ただし、関白のみでした。

五摂家等は、()(しゅう)(もん)(公卿門)の門代(台)で下乗します(門代(台)は石段最上の葛石の部分)。
乗る時は後ろから乗り、降りる時は前から降ります。

御車には、牛にひかせる牛車(ぎっしゃ)と、人の手で持ってひく輦車(てぐるま)があります。
平安時代の9世紀頃から11世紀、盛んに使用された乗り物です。
牛車の他には、輿(こし)がありますが、これは天皇のみの御料でした。対して牛車は、五位以上の者に許された乗り物でした。

牛車は即ち牛(黄牛(あめうし))に引かせる乗り物です。身分により乗る車の種類が違いました。

種類は、主だった物で12輛あります。唐車(からぐるま)(から)(びさし))又は雨眉車(あままゆのくるま)()(枇)(ろう)毛車、糸毛車、半蔀(はじとみ)車、網代車(八葉(はちよう)車・(ぎょう)(よう)車)、(こがね)(づくり)車、(かざり)車(風流)等です。

11世紀中期には、唐車(からぐるま)は廃れ、(ひさし)を付けた網代(あじろ)(びさし)(くるま)()(枇)(ろう)(ひさし)車などと呼ばれる車ができます。

長和(ちょうわ)元年(1012)10月27日の大嘗会(だいじょうえ)御禊(ごけい)の時、藤原道長は、唐車と檳(枇)榔毛の金作車を見て「奇怪であるその装飾は、未だ見たこともないものであった」と言っています。

牛車について記された書物として有名なものに、近世における古制の復興により記された松平定信著の『輿車図考』(文化元年(1804))があります。また、『九条家御車図』(1385年写)や『西園寺家御車図』(鎌倉時代)などもあります。

京都御所には、2輛の牛車が現存しています。葵祭に使用の車は、特別に造られた、別名餝車です。

※ビロウ(蒲葵、枇榔、檳榔)はヤシ科の常緑高木です。漢名は蒲葵、別名はホキ(蒲葵の音)、クバ(沖縄)など。古名はアヂマサ。
ビロウの名はビンロウ(檳榔)と混同されたものと思われますが、ビンロウとは別種です。

牛車の場合、文献では、「檳榔」の字を使っています。ただ「蒲葵」とも書かれています。

牛車の種類

(から)(びさしの)(ひさし)(くるま)

太上天皇・皇后・東宮・准后・親王・摂政・関白などが晴の舞台で使う料です。屋根が唐破風のような形状になっていることから、この名称で呼ばれました。「唐車(からぐるま)」とも呼び、最高級の牛車です。大型で「(はしたて)」という梯子で乗り降りしました。上葺、庇、腰総などは檳(枇)榔の葉で作り、「蘇芳(みす)」という赤い簾をかけます。物見は落入で、外は御簾形、内は綾を押して絵を(えが)き、縁を錦とし、御簾は編糸の紫七緒で、縁錦、裏綾の紫です。下簾は蘇芳の()(せん)(りょう)にいろいろの糸で唐花、唐鳥を縫います。車箱は大きく高く、車の前の簾の左右にも(ほう)(たて)(ほう)(たて))の板を作ります。これには手形という穴があり、乗り降りの時に持ちます。ふつうの車は(しじ)(かけ)(じょう)を用いますが、この車は(はしたて)を用いて乗降します。

雨眉車(あままゆのくるま)(唐車の略儀)

院、親王、関白、弁、太政大臣などの()の時、直衣を着用して乗りました。

屋形は唐車の如しで、上記の唐庇(廂)車の簡略版となり、眉が唐破風のような形状になっています。前後左右に軒先を出した形です。(すだれ)は青く、下簾の帳も青裾濃(すそご)です。

()(枇)(ろう)庇車(ひさしのくるま)

太上天皇、摂関、大臣、親王などが乗りました。車の箱に檳(枇)榔の葉の白くしてあるのを付け、箱の前後と物見の上とに廂が付いています。

()(枇)(ろう)毛車(げのくるま)

単に毛車ともいいます。上皇以下四位以上の乗り物で、女官等も乗りました。また入内する女房や高僧も用いました。檳(枇)榔の葉を細かく裂いて糸のようにして屋根を葺いた車で、屋根が唐庇になっておらず、見物はありません。蘇芳(みす)で、下簾は赤裾濃(すそご)です。

糸毛車(いとげのくるま)(いとげぐるま)

上葺(うわぶき)(車箱の屋根部分)を色染めした糸で覆った車で、見物は設けていません。

(あお)(いと)毛車(げのくるま)(あおいとげぐるま)

皇后、中宮、准后、親王等の乗り物です。青い糸で葺いたものです。

紫糸車

女御・更衣・尚侍(ないしのかみ)典侍(ないしのすけ)の乗用車です。

赤糸車

「賀茂祭」の際に、女使が使用します。

半蔀車(はじとみのくるま)(はじとみぐるま)

院、摂関、大臣、親王など大将以上が乗ります。(しとみ)の上半分が持ち上がります。檜を網代(あじろ)に張った、網代車の一種です。見物の懸戸が外側にはね上げたような造りとなっており、開閉可能の半蔀を設けた車です。

網代車(あじろのくるま)(あじろぐるま)

四位、五位、中少将が乗用した車で、略儀では大臣、納言、大将以上も使用します。車箱の表面に、檜や竹などの薄板を張った車の総称です。檜皮や竹を細く削った物を交差させて編んでいます。袖や立板などに漆で絵文様を描いたものが多いです。袖表や棟表を白く塗り、家文を付けた車は「袖白の車」・「上白(うわじろ)の車」と呼び、大臣の乗用でした。また、棟・袖・見物の上に文様を描いた車を「(もん)の車」と呼びました。

網代(あじろ)庇車(びさしのくるま)(あじろびさしぐるま)

院、摂関、大臣、親王等が使用します。
檜、または竹の網代で箱を作り、庇を付けたものです。
(※何々庇とあるものは、唐車の屋形と同じく庇がある車です)

八葉(はちようの)(くるま)(はちようぐるま)

諸大夫、大臣、公家等広い階層が使用しました。網代車の一種で、文様があります。
網代を萌黄色(黄緑色)に塗り、九曜星(八葉/大きな円の周りに小さな円を八つ書いたもの)の文様を描いた車です。文様の大小で区別し、「大八葉」や「小八葉」などと言いました。

(こがね)(づくりの)(くるま)

金金物は、大臣用です。(ちらし)金物(かなもの)は、大将、納言用(半蔀、八葉、網代)です。主に女子の料です。

餝車(かざりぐるま)

賀茂祭の使に限り用います。風流華美を施したものです。中宮・東宮・近衛使の乗用です。

簾について

竹を緋の糸で編み、赤地の錦の縁を付けたものを、蘇芳(みす)といいます。唐車・檳(枇)榔毛・糸毛・庇車等に用います。また七緒(表縁紫綾或いは白)を用います。
青簾は、雨眉・八葉・網代車等に用います。大臣・大将の場合は五緒で、大中納言以下は四緒を用います。

下簾(したすだれ)について

下簾は、絹綾で作り、(みす)の内側に懸けます。
蘇芳の裾濃に染めたものは毛車の類に用います。青の裾濃は、庇車・雨眉・半蔀(はじとみ)等に用います。刺繍物は唐庇・毛車に用います。物見、網代車には下簾がありません。

畳について

繧繝(うんげん)(べり)の畳は、毛車(三位以上及び四位参議用)に用います。
高麗(こうらい)(べり)の畳は、半蔀・網代車以下用として用います。大紋高麗は大臣・納言・大将用として、小紋高麗は大中納言用として用います。

榻について

榻は、四隅に総角(あげまき)があります。
黄金(こがね)を打ったものは大臣の料、赤銅(しゃくどう)は中納言の料、(ちらし)金物(かなもの)は大将の料、(くろ)金物は納言以下(半蔀、八葉、網代)の料です。

雨皮について

三位以上は、雨の時、雨皮(あまかわ)(油単)を使用します。雨皮は生絹(すずし)を浅黄に染め油を引いたものです。四位以下は(むしろ)を使用しました。

輦車(てぐるまの)宣旨(せんじ)・牛車宣旨

輦車は、人が引く車です。輦車の宣旨は、男は宮城門から宮門までの間が使用を許され、女は宮門内においても輦車の使用が許されました。

牛車の宣旨は、宮門を通行できる勅許です。摂政・関白・親王、宿老大臣、大僧正などが許されました。

『世俗浅深秘抄』(『大内裏図考証』)には「執政家(摂政・関白)のは、上東(じょうとう)門、自余(その他)の輩は(たい)(けん)門、春花門へ参って車を門の外東辺に建てる」とあり、車副に牛飼童・舎人・居飼などが就きます。

上東門と待賢門は大内裏の門で、春花門は内裏の門です。
宮門とは内裏の外郭の門をいい、衛門府が警固しました。建礼門、朔平門、建春門、宜秋門などが宮門にあたります。
また宮城門は、大内裏の門のことをいい、朱雀門以下待賢門、上東門などの14門が宮城門にあたります。

『続日本紀』大宝2年(702)7月己巳
「有勅。断親王乗馬入宮門」〔『史記』李斯伝〕

『日本紀略』長元9年(1036)4月7日条
「聴関白左大臣乗牛車、出入宮門

牛車の構造

牛車は(よこがみ)の両端に車輪をつけた二輪車で、人の乗る屋形(やかた)(轓またの名を箱という)をのせています。この前方左右に長く出ている木を(ながえ)といい、その先端の横木、(くびき)を牛の首にかけます。屋形の出入口には御簾を前後に懸け垂らし、内側に絹布の下簾をつけます。4人乗りが通常で、2人や6人乗る場合もあります。乗り降りは(しじ)を踏み台とし、乗る時は後方から、降りる時は牛を外して前方からとします。男が乗る時は御簾を上げ、女が乗る時は御簾を降ろしています。御所車は車輪や箱が大きいため、榻で乗車は困難なので、四段または五段の階段を設けた(はしたて)を用いるようになりました。

各部の名称

屋形(やかた)(車箱、箱)…人が乗るところ
(とこ)……………………人が坐るところ
(むね)……………………屋形の上を前後に通る木
(まゆ)……………………前後の外に出る部分
(そで)……………………眉の両側に突き出る部分
格子(こうし)、袖格子……眉袖の裏の格子になっているところ
(むね)(とおし)……………… 屋形の前上部中央につく総角(あげまき)の緒
(ぼう)(だて)…………………前後の口の左右にある板
踏板(ふみいた)…………………(ぼう)(だて)の前の板
物見(ものみ)…………………箱の左右の窓
(した)立板(たていた)………………物見の下の板
庇……………………箱の前後、物見の上に差し出るところ
(とじきみ)…………………前後の口の下に張る低い仕切の板
(ながえ)……………………高欄、前方に長く出る2本の木
(とびの)()…………………轅の車の後ろに出る部分
(くびき)……………………轅の端の牛の頭を(やく)するところ
(しじ)……………………軛の下に置く台
(よこがみ)…………………車輪の心棒
(くさび)……………………軸の端の鉄
(とこしばり)…………………箱と車とを繋ぐ(なわ)
(こしき)(とう)………………車輪((おほわ))の()の集まるところ
(かりも)(かも)…………轂の口の鉄
このほか、前後に(みす)があり、それぞれ前(みす)・後(みす)といい、内側の帳を下簾(したすだれ)といいます。

牛車

御車舎(おくるまやどり)

御車舎は御所車を入れておくところです。京都御所には現在、2輛の牛車が現存しています。

慶応4年(1868)には、御車舎は清所門外の西側、御舂屋(おつきや)のところにありました。
明治14年(1881)~同29年(1896)の間に春興殿西側に建造されました。

さらに、上記の建物を大正4年(1914)8月2日に大宮御所(御文庫の西側)へ移しました。
その後、昭和2年(1927)2月に大宮御所より現在の地に移しました。(昭和5年の平面図にあり)

御所の牛車は、元は檳(枇)榔毛庇車1輛と網代庇車2輛の計3輛ありました。

近世の安政2年(1855)、鷹司(たかつかさ)政通(まさみち)が乗用し、明治元年(1868)12月28日の皇后冊立の時、一条美子(はるこ)(昭憲皇太后)が使用しました。又は檳(枇)榔庇車ではなかったかと思われます(この時の牛車を唐(庇)車と言っている資料が多くみられます。『九条家御車図』にあり)

参考資料

  • 関根正直『車輿図解』 六合館 1900年
  • 庄司成男 荒川玲子 翻刻『安政御造営図志』 毎日エディショナルセンター 2004年
  • 『西園寺車之図』写江戸時代『九条家車之図』写 1385年 国立国会図書館所蔵
  • 松平定信『輿車図考』 1804年 国立国会図書館所蔵
  • 裏松光世(固禅)『大内裏図考証』 1788年(1797年献上)