「和を以て貴しと為す」を世界に
「東京オリンピック2020」は、コロナ禍の続く中、一年遅れで開催されたけれども、内外の選手たちが大いに活躍し、多くの感動を生み出した。とくに日本発祥の「JUDO」や「KARATE」が男女とも素晴らしい好成績をあげたことは、まことに嬉しい。
それはどうして可能になったのか。そんな関心に応える特集番組「日本柔道復活秘話」が17年前のアテネオリンピック直後、NHKテレビで放映された。それによると、全日本柔道連盟理事の山下泰裕氏(47歳)は、2000(平成12)年のシドニー・オリンピック以後、英米で猛烈な語学研修をしながら、世界柔道連盟の理事として、本当にフェアーな試合と正確な判定ルールの改革を懸命に呼びかけたのである。
その際、特に力説したのは、「柔道」が単なる格闘技ではなく、「対戦する相手と和し、相手を敬し、相手に礼を尽くす武道であって、聖徳太子の唱えられた“和を以て貴しと為す”の精神を忘れてはならない」とのメッセージを、世界の柔道関係者に理解してもらうことであったという。
これぞ、まさしく世界に通ずる大和魂であり、サムライ・スピリットにほかならない。ところが、歴史学界では、20数年前「聖徳太子はいなかった」という類の奇説が流行した。太子は「豊聡耳皇子」とも「聖徳法王」とも称され、1400年前の推古女帝29年(621)に薨去されたが、そのような太子像を虚構と否定し「聖徳伝説は藤原不比等(720年薨)の指令による創始である」などと推断する者まで現れた。
しかし今回は、そんな珍談に惑わされることなく、坂本太郎博士や最近のオーソドックスな研究成果を参考にしながら、太子の実像について紹介しよう。
初めての「女帝」(女性天皇)の誕生
前回(第7回)とりあげた欽明天皇は、仏教の受容に配慮されたのみならず、新興蘇我氏や渡来帰化人なども活用しながら、屯倉(皇室領)や水陸路の整備などにも尽くされた。
しかし、その崩御後、3人の皇子が敏達・用明・崇峻として皇位を継承する間に、蘇我氏が強大な権力を握るに至った。特に崇峻天皇の場合、生母が蘇我小姉君であるが、その母后の兄の蘇我馬子は、甥の天皇が意のままに従わないことを怒り、腹心に天皇を暗殺させる、という前代未聞の弑逆事件まで惹き起こしている(592年)。
そこで、重臣たちの協議により、次の天皇に推し立てられたのが、敏達天皇の皇后だった39歳の額田部皇女(生母は蘇我堅塩媛)=第33代の推古天皇(豊御食炊屋姫)にほかならない。
ちなみに、かつて(3世紀の中ごろ)邪馬台国には「倭女王卑弥呼」がいた、と『魏志倭人伝』に記されるが、これは大和朝廷の皇統譜には関係のない、おそらく北九州地域の小国連合に君臨した女王だとみられる。一方、神功皇后(5世紀初め)が第15代応神天皇の「摂政」を務めたり、また飯豊青皇女(5世紀後半)も甥か弟の第23代顕宗天皇が即位するまで「摂位」の立場にあったと伝えられるが、ともに大王(天皇)として即位されたわけではない。
したがって、推古天皇は皇室史上(さらに東洋人上)初めて誕生した女帝(女性天皇)である。それが実現しえたのは、夫君の崩御後、「天下を取らん」とした異母弟の穴穂部皇子を退け、同母兄の用明天皇と異母弟の崇峻天皇を立てる際にも、皇太后として的確な判断と迅速な行動を示した実績が、重臣たちから評価され信望を集めていたからであろう。
事実、この女帝がすぐれた政治的判断力を持っておられたことは、即位4か月後(593年)、他の皇子らをさしおき、甥の厩戸皇子=聖徳太子を「皇太子」に立て「摂政」に任じられた、という一例をみても明らかであろう。
太子の立場は、父が女帝と同母兄の用明天皇、また母が女帝の異母妹の穴穂部間人皇女であって、その両親とも蘇我氏の血を引いており、そのうえまもなく蘇我馬子の娘の刀自古郎女を妃に迎えている。つまり、女帝とも蘇我氏とも密接な関係にあり、その双方から全幅の信頼を得られたのである。
皇太子の堂々たる内政外交
飛鳥時代の皇太子は、天皇より自由な立場で国政に関与したが、特に聖徳太子は「摂政」として「大臣」蘇我馬子らの協力により「万機を総摂し天皇の事を行ひたまふ」たのである(『日本書紀』、以下も同じ)。
その内容は多岐にわたるが、まず就任早々の推古2年(594)、「三宝(仏法僧)興隆」の詔を公式に出されたので、延臣たちは「各々君親の恩のため競ひて仏舎を造る」ようになった。当代の仏教は、単なる個人救済ではなく、国の君と家の親への報恩の誠を捧げて、国と家の繁栄を祈ることに重点があった。
それから10年後の推古12年(604)は、中国伝来の讖緯説(数理予言説)で、「革令」の年とされる甲子(十干十二支の組み合わせの第一番)にあたるところから、画期的な事が行われた。その一つは、前年12月に定められた「冠位十二階」が、この正月元日、初めて女帝から授けられたことである。
従来は、朝廷から主な氏に賜った姓が世襲され、その氏姓で身分の上下を示した。しかし今後は、天皇から個人の才能・勲功により冠位を賜って、冠の色(錦・青・赤・黄・白・黒)で位階を示しうることになった。しかも、その冠位は徳・仁・礼・信・義・智の六徳目(各々大小二階)で名づけられているが、これは儒教の五倫(仁・義・礼・智・信)と異なり、五行相生の思想に基づくとみられている。太子は「徳」を「仁」の上に置き、また五倫と較べて「礼・信」を「義・智」より重んじたことが注目されよう。
もう一つは、同年4月3日「皇太子親ら肇めて憲法十七条を作る」に至ったことである。周知の第1条「和を以て貴しと為し、忤ふこと無きを宗とせよ。……」や第2条「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏法僧なり。……」をはじめ、第3条の「詔を承けては必ず慎め。……」も第4条「群卿百寮、礼を以て本と為す。……」以下も、儒教的な倫理を仏教的な信仰により「天皇中心の理想政治を目指す」(坂本太郎博士)べき中央・地方の官吏たちへの訓誡が、的確に示されている。これを承けて約一世紀後(701年)に「大宝律令」が完成され得たのである。
さらに外交面でも、すでに推古8年(600)、新羅へ出兵したり隋の様子を探ったりしていたが、やがて7年後(推古15年)、遣隋使小野妹子を送り「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無きや。……」という堂々たる国書を皇帝煬帝に呈している。従来の朝貢外交を止め、対等外交を開こうとした聖徳太子の見識と勇気には、驚嘆するほかない。しかも推古女帝は、帰国した小野妹子に最上の大徳冠位を授けておられる。
ほかにも、三経(法華経・勝鬘経・維摩経)の義疏(注解書)の作成や「天皇記・国記」以下の国史の編纂など、偉大な功績を残した太子は、推古30年(622)2月22日、49歳の生涯を閉じられた。
補注 聖徳太子研究の進展と推古天皇に関する評価
聖徳太子否定論は、後世、聖徳太子と呼ばれた厩戸皇子の存在を否定するものではなく、その業績の多くが記された『日本書紀』の内容を疑問視し、そのほかの史料の信憑性も否定することで、皇子は当時有力な皇族の一人でしかない、とするものであった。しかし、聖徳太子の業績を物語るものとして、「上宮法皇」(聖徳太子)の死の前後の経緯を記した法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘については、東野治之氏は追刻ではないことを指摘し、また太子の著作とされる『三経義疏』の漢文は和習が強く、またそのうちの『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」には先行する文献の引用など、共通点が多いことから、聖徳太子が関わったことは間違いないことを石井公成氏が論じている。遣隋使や冠位十二階については『隋書』に記述があるため、推古天皇の時代に政治の改革と仏教の興隆が行われ、そこで厩戸皇子が大きな役割を果たしたという『日本書紀』の記述はある程度信頼できるものと考えられる。
今後は、厩戸皇子が「聖徳太子」と呼ばれるのにふさわしい人物であったとする否定論の克服の上に、太子の後ろ盾となった推古天皇のご事績についての研究の更なる進展が望まれる。(久禮旦雄)
参考文献
- 石井公成『聖徳太子 実像と伝説の間』(春秋社)
- 同「三経義疏の研究状況」『中外日報』令和3年4月27日
- 東野治之『聖徳太子―ほんとうの姿を求めて』 (岩波ジュニア新書)
- 同「聖徳太子―史実と信仰―」奈良国立博物館・東京国立博物館・読売新聞社・NHK・NHKプロモーション編『聖徳太子1400年遠忌特別展記念特別展 聖徳太子と法隆寺』(読売新聞社・NHK・NHKプロモーション)
- 北康宏「聖徳太子―基本資料の検討から」石上英一・鎌田元一・栄原永遠男監修『古代の人物1 日出づる国の誕生』(清文堂出版)
- 義江明子『推古天皇 遺命に従うのみ群言を待つべからず』(ミネルヴァ書房)
- 同『女帝の古代王権史』(ちくま新書)