第7回 仏教を慎重に受容された欽明天皇

「文明の衝突」は不可避か

かつてハーバード大学教授S・ハンチントン博士著『文明の衝突』(邦訳は平成10年刊)を読んで、色々考えさせられたことがある。

同氏の文明圏論を私流にまとめ直せば、現代の世界は①中国などの儒教文明圏、②インドなどのヒンズー文明圏、③中東などのイスラム文明圏、④ロシアなどの東方教会文明圏、⑤欧米などの西方教会文明圏、⑥中南米などのラテン文明圏、⑦上記のどれからも独立した日本文明圏、⑧様々な文化の混在するアフリカ文明圏から成るという。

そのうち、長らく圧倒的な優位にあった⑤欧米文明が衰退して、宗教的な個性の強い③イスラム諸国や①儒教プラス共産主義の中国と衝突する危険が高い、と指摘している。このような分類や予測には、当初から批判も少なくない。

ただ、残念ながら21世紀初頭(平成13年)の9月11日、イスラム過激派によるアメリカを標的にした同時多発テロ事件が強行され、それを機にアフガニスタン紛争が激化して、あたかも③と⑤の文明(宗教)の衝突だ、とみなされがちになった。

もちろん、文明(宗教)自体が争いを引き起こすわけではない。しかし、それを信奉する人々が、他者への理解と寛容を欠けば、排他的・攻撃的な言動を「正気」だと錯覚しかねない。

この点、私ども日本人はどうであったのだろうか。それは、ハンチントン教授の著書をみても、①~⑥のどれからも独立した文明として、日本を⑦に分類しながら、その真因に全く言及していない。けれども、これこそ日本の宗教的な特性にほかならない。それが仏教受容の当初からみられる。

仏教の公伝と神祇祭拝の伝統

前回とりあげた第26代継体天皇には、即位以前に尾張出身の目子媛(めこひめ)との間に生まれた二皇子と、即位の際に皇后とした手白香皇女(たしらかのひめみこ)(武烈先帝の叔母か姉妹)との間に生まれた嫡嗣があった。そこで、その後は嫡嗣が継ぐべきところ、先に異母兄の2皇子が27代安閑天皇および28代宣化天皇として各4年仲継ぎをされた後、ようやく31歳で即位されるに至った。第29代の欽明天皇である。

この天皇の即位年は、『日本書紀』によれば539年であるが、実際は7年前の532年かもしれない。なぜなら、百済から日本へ仏教が公式に伝来した年を、『上宮聖徳法王帝説』などが欽明天皇7年戊午(538)としているのに、それを『日本書紀』では即位13年目の壬申年(552)に係けている(その500年後=1052年が末法元年ということになる)。

ともあれ、この欽明天皇朝に、百済の聖明王が仏像と経典を献じて、「この法は……最も殊勝たり……周公・孔子(儒教の始祖)も尚知る能はず。……帝国に伝へ奉り畿内(日本)に流通せん」と推奨している。

それに対して欽明天皇は、妙なる仏教の到来を喜びながら、重臣に「西蕃(百済)の献ずる仏の相貌は端厳しけれど、全く未曽有なり、(いやま)ふべきや否や」と意見を求められた。すると、新興勢力の蘇我稲目は、直ちに賛意を表している。

しかし、古参の物部尾輿らは、従来「我が国家の天下に王とましますは、恒に天地社稷の百八十神を以て春夏秋冬に祭拝したまふを事とす」るからであり、今後「改めて蕃神(仏)を拝みたまはば、恐らく国神の怒りを致したまはん」と反対を唱えている。

そこで天皇は、即決を避けられ、とりあえず仏像などを蘇我稲目に付して「試みに礼ひ拝ましむ」措置をとられた。古来の神祇祭祀を主宰して来られた天皇は、外来の仏教に感心しても、受容には慎重を期されたのである。

すると、しばらくして国内に疫病が流行し、多くの人々が病死した。そのため、尾輿らの反対派の奏請により、「仏像を難波の堀江に流し棄て、また火を伽藍(寺)に縦け焼き尽くす」に至ったという。また、蘇我氏も反省したのか、その後(555年)、百済の聖明王が新羅と戦って遂に殺されたことを知らせてきた王子恵に対し、「邦を建てし神……天より降り来まして国家(日本)を造り立てし神なり。このごろ聞く、汝が国(百済)()てゝ祀らずと。まさに今、前の過ちを(あらた)め悔い、神の宮を(つくろ)ひ理め、神の霊を祭り奉らば、国は昌盛(さか)へん」と、むしろ神祭を励行するよう諭している。

『聖徳太子伝図絵』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

「仏法を信け神道を尊びたまふ」

ついで、欽明天皇と姪の皇后石姫との間に生まれた嫡嗣が、572年、即位して代第30代敏達天皇となられた。この天皇は、『日本書紀』に「仏法を信ぜず、文史(儒書)を(この)みたまふ」と評されている。事実、前代から疫疾の流行による死者も絶えなかったので、585年「仏法を()めよ」と命じられたが、その後まもなく天皇自身「瘡」(天然痘)を患い崩御されてしまった。

そこで、その異母弟が即位して第31代用明天皇となられた。この天皇は、『日本書紀』に「仏法を信じて、神道を尊びたまふ」と評されている。兄君と異なり「仏法」を信仰されたのは、外戚蘇我氏(母は稲目の娘堅塩媛)の影響であろうが、それと共に皇女の酢香手媛を「伊勢の神宮に拝して日神(天照大神)の祀に奉らしむ」など、古来の「神道」も尊崇しておられる。

ただ、この用明天皇は、即位の翌年(586年)、病気にかかって「三宝(仏教)に帰らんと思ふ。卿ら議せよ」と仰せられたところ、従来どおり物部・中臣両氏が反対し、蘇我馬子は賛成した。しかも、それに次の皇位をめぐる争いが絡み、結局587年、馬子のために物部氏は滅ぼされてしまい、馬子の甥にあたる泊瀬部皇子が擁立されて第32代崇峻天皇となられたのである。

仏教受容の可能性と影響力

このように見てくると、6世紀中ごろ、百済を介して日本に伝えられた仏教は、すんなり直ちに受け入れられたわけではない。その背景に伝統派の物部・中臣両氏と革新派の蘇我氏との対立もあった。しかしながら、何より重要なことは、欽明天皇も敏達・用明両天皇も、一方では極めて慎重な態度をとられながら、他方では決して閉鎖的でなかった。そのために、いくつかの摩擦・抗争を経ながらも、次第に無理なく受容されるに至ったのである。

それが可能になったのは、古来の神道にも外来の仏教にも、一神教的な独善性・排他性が少ないからだと思われる。詳しくは田中元氏著『古代日本人の世界―仏教受容の前提―』(昭和47年、吉川弘文館)なども参考になるが、以下に私見の一端を略述しよう。

まず神道では、「カミ」と「ヒト」を一応区別しながら、あたかも親と子のごとく互いに「イノチ」が連続しているものと信じている。それゆえ、その中核をなす皇祖神や祖先神を最も重んずるが、他にも無数の神々を認めて家族のごとく共存する現実的な性格が強い。

それに対して仏教は、本来現世に否定的であるが、三世流転の因果律を信じ、仏という覚者(Buddha〈仏陀〉)を守護する多数の神々を認めており、しかも印度から中国を経て伝えられた漢訳仏教には、現世肯定の儒教的な要素が多分に加わっている。

したがって、古代の日本人は、神道の「カミ」と異質の仏も「蕃神」(外国の「カミ」)とみなし、一面で警戒しながら、反面で興味をもって接することができたのであろう。しかも、それが一方で個人の救済を本旨としながら、他方で氏神などの枠にとらわれない普遍性を持つところから、朝廷では万民救済・鎮護国家の宗教として重視されるに至った。その影響は極めて大きく、すでに7世紀中頃、「仏法を尊び、神道を軽んじたまふ」第36代孝徳天皇のような方も現れ、やがて仏教を中心とする神仏習合が盛んになったのである。

『聖徳太子伝図絵』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

補注 『扶桑略記』が伝える仏教の私的な伝来

『日本書紀』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は欽明天皇朝における百済の聖明王からの「仏教公伝」を語る。しかし、それ以前にすでに渡来人などにより仏教が私的に日本へもたらされていたことが、平安時代の皇円による歴史書『扶桑略記』にみえる。

『扶桑略記』は「日吉山薬恒法師の法華験記」が「延暦寺僧禅岑記」を引用して記すこととして、「継体天皇即位十六年壬寅、大唐の漢人案部村主司馬達止、此の年の春二月に入朝す。即ち草堂を大和国高市郡坂田原に結び、本尊を安置し、帰依礼拝す。世を挙げて皆云ふ、是れ大唐の神なり」とする。

『日本書紀』はこの司馬達止の息子である鞍部多須奈が用明天皇のために作った仏像が、「南淵坂田寺」にあるとし、また多須奈の子で、仏師として有名な鞍作鳥が元興寺(飛鳥寺)の仏像修造の功に対し、推古天皇から賜った水田を用いて造営した金剛寺が「南淵坂田尼寺」であるとしている。のちに天武天皇朝の朱鳥元年(686)に天武天皇のための法会が坂田寺で、大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺とともに行われたとされており、飛鳥時代を通じて勢力を持った寺院であったと考えられる。『扶桑略記』が伝える司馬達止の記事も、もともとこの坂田寺の縁起の一部であった可能性が高い。なお同寺は現在廃絶しているが、奈良県高市郡明日香村坂田で発掘調査が行われ、金堂跡が確認されている。(久禮旦雄)

参考文献

  • 飛鳥資料館編『渡来人の寺-檜隈寺と坂田寺』(昭和58年、奈良国立文化財研究所飛鳥資料館)