東山天皇御即位式・霊元上皇御譲位行列図屏風の摩訶不思議

屏風について

まず屏風(びょうぶ)について、「(そう)」は二つの屏風が一揃(ひとそろい)の物であることをいいます。「(せき)」は一つの屏風で成り立っている物、又は一対の片方の物の意味(「半双」ともいう)で、向かって右側を右隻(右に落款(らっかん)がある)、左側を左隻(左に落款がある)といいます。また、向かって右から第一(せん)、第二扇と数えます。

「東山天皇御即位式・霊元(れいげん)上皇御譲位行列図屏風」の場合は、六曲一双になります。

この一双の屏風に描かれている内容は、古制の復興とは程遠い内容であり、結論としては、全体に寛永(かんえい)有職(ゆうそく)応仁(おうにん)文明(ぶんめい)の乱以降の混迷した有職)の影響を受けているように思われます。(※寛永年間:1624~1644)

この屏風を描いた絵師の狩野(かのう)(かげ)(のぶ)伯圓(はくえん))は、加賀藩の江戸御用詰御用絵師です。そのため、実際の内裏(だいり)等や即位式を見ていないので、資料のみで描いており、この屏風はあくまでも絵空事(えそらごと)です。

右隻 東山天皇御即位式

右隻 東山天皇御即位式
東山天皇御即位式図屏風ジオラマより

(じょう)(きょう)4年(1687)4月28日(グレゴリオ新暦では6月7日)、113代東山天皇御即位式の様子を描いたものです。
この延宝(えんぽう)度(1675)の御造営の建物(内裏)は、宝永5年(1708)に焼失するまでに約30数年存続していました。
紫宸殿(ししんでん)の規模は、慶長(けいちょう)度から宝永度に至るまでほとんど変化はありませんでした。

正面7間側面5間、西側に3間に1間の西廂が付属しています。東には御膳(おもの)宿(やどり)があります。
紫宸殿中央の間は13尺5寸で、他は10尺5寸、東西の廂の間は13尺5寸です。この時の(しとみ)()半蔀(はじとみ)で、現在の物((しとみ))とは違う点です。

廂の周囲の(おち)(えん)で、四方に高欄をめぐらしてありましたが、古制の簀子(すのこ)(えん)ではなく、壁面と直角に板を張る切目敷の板縁でした。正面に向拝があり、三つ斗栱(ときょう)(かえる)(また)を用いています。

西廂の屋根は、柿葺でした。また屏風の画では、板縁の柱は角柱になっていますが、実際は丸柱であろうと思われます。さらに、東階には高欄がなく、西側には階段がありません。
また、延宝度には、南御門((じょう)明門(めいもん)代)にあたる西側腋門(穴門)があり、この部分に関しては合致しています。
なお画では、南御門(承明門代)の屋根が唐破風ですが、切妻が本来の形です。四つ足は角柱であるべきですが、丸柱に描かれています。

112代霊元天皇(在位:1663~1687)は、皇室行事等の復興に取り組みました。この東山天皇の即位式は、略儀ながらの再興でした。また大嘗祭(だいじょうさい)(11月16日)においても復興されました。大嘗祭は、221年以上行われておらず、即位式も簡易でした。考証等はかなり無理がありますが、『御即位式図譜』(江戸時代後期)には、この当時に使用されている調度関係等の資料が描かれています。

大嘗祭は(ぶん)(しょう)元年(1466)の103代()土御門(つちみかど)天皇の時以来です。この時代のものとして、『文安御即位調度図』(1444)があります。
104代()柏原(かしわばら)天皇から112代霊元天皇までは大嘗祭がありませんでした。

屏風を見てみると、束帯(そくたい)を着用している者は、(うえの)(はかま)はすべて()(あられ)文の袴を着しています。基本では、四位以下は無文白平絹の表袴を着用します。公卿は若年は窠に霰文、壮年は(やつ)藤丸(ふじのまる)です。

右方次将威

ただ、一日晴の時は、表袴は窠に霰文の袴であろうと思われますが、南階の左近衛の次将の表袴は無文白平絹であり、右近衛の次将は窠に霰文の袴であり疑問が残ります。

表袴の文様は禁色であるので、禁色(きんじき)聴許(ちょうきょ)が必要です。先にも述べたように、儀式では官位相当ではなく、位が高い者が低い官を行う場合があり、自分の位袍(いほう)当色(とうじき)(色目)より下の装束を着すると思われますが、この時は、自分の当色の装束を着しているように思われます。
(袍と袴が合わない、又は下位の役でも上位の装束を着している?)

礼服(らいふく)主殿(とのも)図書(ずしょ)寮官人は白表袴であろうと思われます。

図書・主殿 香
内舎人

中務(なかつかさ)()舎人(どねり)は、随身と同じ(舎人随身)であるので、弓・(つぼ)胡簶(やなぐい)を着けるべきです(『東山天皇紀』・『(もと)(ひろ)公記』)。

本来、随身の蛮絵は、左が獅子・右が熊ですが、花金箔押しが描かれています。これも寛永有職の影響を受けていると思われます。

左右衛門(官位相当は大尉従六位上)は、縫腋袍を着用していますが、本来は闕腋袍にすべきで、巻纓(けんえい)の冠に(おいかけ)・弓・(ひら)胡簶(やなぐい)を着するべきです(『東山天皇紀』・『基煕公記』は闕腋袍です)。

礼服等の履き物は烏皮(くりかわの)(くつ)であり、束帯装束は平安以降では、儀式は靴沓であると思われますが、まちまちです。浅沓は烏皮履が変化したものです。
殿上の間の4尺台盤(だいばん)の所の(あつ)(じょう)は、両面(べり)であるかもしれませんが高麗(こうらい)(べり)です。
太刀についても、帯びている者、いない者がおり、一日晴の時であるとしたら、役に応じて帯びる必要があるのではないかと思われます。

高御座(たかみくら)(はま)(ゆか)の間が、四面であり、鳳凰(ほうおう)麒麟(きりん)等の画がありません(実際は三面)。

八咫烏

銅烏幢(どううどう)烏形(うぎょう)(どう))が2本足ですが、第42代文武(もんむ)天皇の即位以来、宮中の重要儀式では三足(さんそく)()をかたどった銅烏幢に日月を象徴する日像(どう)と月像(どう)を伴って飾っていたことが知られますが、神宮文庫の『文安御即位調度之図』(文安元年記録)の写本からは、この日像幢が丸い金銅の地に赤く(からす)を描いたものであったことが確認されています。

龍像(とう)赤地金色が東、龍像(とう)黄地青色が西となっていますが、『東山天皇即位之図』(小原家)では東西が逆に描かれています。
近代では、26(りゅう)の旛が飾られています。大正から令和の即位式では、庭上には、萬歳旛(ばんざいばん)(東西)・日像(にちぞう)纛旛(とうばん)(東)・月像(げつぞう)纛旛(西)・頭八咫(やた)(がらす)(がた)大錦旛(東)・霊鵄(れいし)(がた)大錦旛(西)・中錦旛(東5西5)・小錦旛(東5西5)が飾られました。

内弁の座っている椅子が床子(しょうじ)ですが、本来は兀子(ごっし)です。

飾金具は、銅板を銀メッキしてから、金を塗ります(金鍍金)。

屏風の絵と『東山天皇即位之図』(小原家)と『東山天皇紀』・『近衛基煕公記』とは多くの違いがあります。
以上、結論として、全体に寛永有職(混迷した有職)の影響を受けているように思われます。

左隻 霊元上皇御幸移徙わたまし

霊元上皇御譲位行列図ジオラマより
霊元上皇御譲位行列図ジオラマより

(じょう)(きょう)4年(1687)3月26日に行われた霊元上皇の御幸の様子を描いたものです。
こちらも右隻と同様、束帯を着用している者は、表袴はすべて窠に霰文の袴を着ています。
また、袍に関しても官位相当ではないようです。

右隻と同じく、官位相当ではなく、位の高い者が低い官を行う場合があり、自分の位袍の当色(色目)より下の装束を着すると思われますが、この時は自分の当色の装束を着しているように思われます。
(袍と袴が合わない、又は下位の役でも上位の装束を着している?)

履き物は烏皮(くりかわの)(くつ)を履いています。強装束では、浅沓に替わっているように思われます。武官は靴沓であろうと思われますが、この時代は文武官とも鹵簿(ろぼ)の時は靴沓を用いたと思われます。
大臣・大将は、本府随身の弓に裾を懸けます。また5尺以下は上手(うわて)に懸けますが、屏風にもその通りに描かれています。

行列は、御所(内裏)の南側を進んでいるように見えますが、右隻に描かれている南御門(承明門代、丸柱)と左隻の南御門(角柱)が違うように思われます。

また屏風では、仙洞御所の門の位置が延宝度の御造営とは異なります。
貞享元年(1684)4月5日焼失後、敷地は()水尾(みずのお)院の敷地を使用しています。後水尾院の敷地の他、東福門院の敷地の一部が加えられました。南築地に開けられていた門2カ所はいずれも閉ざされて築地とし、その中間西寄りに新たに四足門を設けています。東福門院の台所門を台所門として使用しています。

主要な建物は、北へ一直線に配置され、東側の庭が広くとられています。文庫との間を塀が仕切っています。貞享2年(1685)に建て直された御所は、貞享4年(1687)3月26日に霊元院御所となります。

また、屏風に描かれている院御所は、延宝5年(1755)に描かれた絵図にも合致しません。禁裏南築地に唐門(向(から)破風(はふ)門)があるこれは、宝永6年(1709)の宝永度の御造営の時のものです。

結論は、この霊元上皇の御幸は、どこを歩いているのかわからないのが現状です。
出車(いだしぐるま)が四足(脚)門から入るとありますが、棟門を入った北側に四足門(東面)が見えます。なぜこの場所に四足(脚)門があるのか疑問です。
またこの頃は、築地は五線であると思われます。五線は天正度(1590)からです。
出車の牛車は、網代(あじろ)庇車で、文様から(ぎょう)(よう)車であるといえますが、庇車にしているので、蘇芳(みす)です。下簾(したすだれ)は蘇芳末濃で、立袖のところまで簾があるのが疑問です。

御車の牛車は、()(枇)(ろう)庇車で、文様から八葉(はちよう)車に枇榔を葺いたようです。庇車(毛車)にしているので、蘇芳簾にしています。よって下簾は蘇芳の末濃であるべきです。また()()がなく、立袖のところまで簾があるのが疑問です。雨皮掛は撞木ですが違う。出車には、掛杖持ちが一人、掛杖が2本あります。

出車の後ろに青色袍((きく)(じん))を来た殿上人の伏原(ふしはら)宣通(のぶみち)(蔵人)がいます。これは非常に珍しい袍です。
召具等の太刀紐の垂があるのは疑問です。

行列

看督(かどの)(おさ)()(ちょう)胡簶(やなぐい)が同じですが、火長は通常(かり)胡簶(ころく)(えびら))です。また布衣を着用していますが、本来は(かち)()です。
看督長と火長が同じ装束です。屏風では烏帽子をかぶっていますが、これも疑問です。

看督長の装束は、細纓(さいえい)(おいかけ)・褐衣(茶)・(つぼ)胡簶(ころく)・黒弓で、火長の装束は、細纓・緌・褐衣(桃花)・狩胡簶・赤弓です。太刀と(いちび)脛巾(はばき)は共通です。また退紅の褐衣もあります。

三役者の召具(笠持・沓持)の人数が『院中番衆所日記』とは異なります。

行列

()随身(ずいじん)は、上皇(院)の警護に当たります。本府(ほんぷ)随身と(しょう)随身は、左右近衛府の舎人から選ばれます。
随身の袍の色目は、(はなだ)、藍ですが、御随身は浅縹、本府・小随身は縹・浅縹・褐衣(茶)、下﨟(げろう)随身は二藍ではないかと思われます。通常晴の列には、衛府の随身は蛮絵の装束を着ますが、この場合は不明です。

御車関係では、(くるま)(ぞえ)は紺の布衫(ふさん)を着ています。牛童は、屏風では二藍ですが実際は桃色の布衫であると思われます。

牛車

大臣・左大将は、随身が弓で裾を持ちます。

行列

以上、左隻を見てきましたが、結論として、全体的に寛永有職(混迷した有職)の影響を受けているように思われます。

東山天皇の即位式について

東山天皇の即位式は貞享4年(1687)4月28日に行われました。この時東山天皇(1675~1710)は13歳でした。
そのほか、屏風に登場する人々をご紹介します。

  • 一條(ふゆ)(つね)(晩年は(かね)(てる))(1652~1705)摂政
  • 摂政、36歳。極官は従一位、関白。
  • 近衛(このえ)(もと)(ひろ)(1648~1722) 内辨
  • 左大臣、40歳。極官は従一位、関白・太政大臣。
  • 久我(こが)(みち)(とも)(1660~1719) 外辨
  • 大納言。極官は従一位、大納言。
  • 東坊城(ひがしぼうじょう)長詮(ながあき)(1647~1711) 
  • 式部権大輔。極官は正二位、権大納言。
  • 万里(までの)小路(こうじ)淳房(あつふさ)(1653~1709)
  • 大納言、36歳。極官は従一位、権大納言。
  • 東園(ひがしぞの)基量(もとかず)(1653~1710)宣命使
  • 中納言、35歳。極官は正二位、権中納言
  • (ひろ)(はた)(とよ)(ただ)(1666~1737)
  • 新源中納言、22歳。極官は従一位、内大臣。
  • (うら)(まつ)意光(のりみつ)宰相(1652~1707)
  • 参議、36歳。極官は正二位、権中納言。
  • 長谷忠能(ただやす)(1649~1687)左近衛府大将代
  • 39歳。極官は従四位上、兵部権大輔。
  • 船橋相起(弘賢(ひろかた))(1647~1714)典儀
  • 41歳。極官は正二位。
  • 平松(ひらまつ)時方(ときかた)朝臣(1651~1710)擬侍従(左)
  • 極官は従二位、権中納言。
  • 西洞院(にしのとういん)時成(1645~1724)擬侍従(左)
  • 右衛門督、43歳。極官は正二位、権大納言。
  • 萩原(はぎわら)(かず)(つぐ)朝臣(信成)(1645~1710)擬侍従(左)
  • 極官は正三位、右衛門佐。
  • 卜部(うらべ)(吉田)兼連(かねつら)朝臣((かね)(ゆき))(1653~1732)擬侍従(右)
  • 極官は正二位、非参議。
  • 石井(いわい)(ゆき)(とよ)朝臣(1653~1713) 擬侍従(右)
  • 極官は従二位、権中納言。
  • (あぶらの)小路(こうじ)(たか)(ざね)(1660~1729) 擬侍従(右)
  • 左衛門督、28歳。極官は正二位、権大納言・民部卿。
近衛基煕 内辨
内辨
東園基量 宣命使
宣命使
長谷忠能 左近衛府大将代
左近衛府大将代
船橋相起(弘賢) 典儀
典儀
平松時方朝臣 擬侍従(左)
擬侍従
擬侍従

霊元上皇の移徙について

〈殿上人〉

  • (ふし)(はら)(清原)宣通(のぶみち)(1667~1741)
    蔵人。極官は正二位。
  • 藤原(山井(やまのい))兼仍(1671~1719)
    極官は正三位、治部卿。
  • 滋野(しげの)()兼成((きん)(すみ))(1671~1756)
    極官は正二位、権大納言。
  • 橋本(さね)(まつ)(1672~1732)
    極官は従二位、権中納言。
  • 藤波(のり)(ただ)(1670~1727)
    極官は従二位、神祇大副(大中臣)。
  • 勧修寺(かじゅうじ)尹隆(1676~1722)
    極官は正三位、権中納言。
  • 船橋相起(弘賢)(1647~1714)
    極官は正二位。
  • 烏丸(からすまる)(のぶ)(さだ)(1672~1692)
    極官は従四位上、左中弁、蔵人頭。
  • 鷲尾(わしお)(たか)(なが)(1673~1736)
    極官は正二位、権大納言。
  • 甘露寺(かんろじ)輔長(1675~1695)
    極官は正四位上、右大弁、蔵人頭。
  • 裏辻(うらつじ)(すえ)(もり)(1664~1688)
    極官は従四位下、右少将。
  • 葉室(はむろ)頼重(1669~1705)
    極官は従二位、権中納言。
  • 正親町(おおぎまち)三条(さんじょう)公光(きんみつ)(きん)(おさ))朝臣(1668~1719)
    四位。極官は正二位、権中納言。
  • 桜井兼供朝臣(1659~1730)
    極官は正三位。
  • 阿野實字朝臣(1665~1690)
    極官は従四位上、左中将。
  • 風早(かざはや)公前((きん)(なが))朝臣(1666~1723)
    極官は従二位、参議。
  • 四條隆安(たかやす)朝臣(1663~1720)
    極官は従三位、権中納言。
  • 花園(きん)(はる)(1662~1736)
    極官は正二位、権中納言。
  • 石井(いわい)(ゆき)(とよ)(1653~1710)
    極官は従二位、権中納言。
  • 冷泉(れいぜい)(ため)(つね)(頼廣・為直)(1654~1722)
    極官は正二位、権大納言。
  • 平松時方(ときかた)朝臣(1651~1710)
    極官は従二位、権中納言。
  • (その)(もと)(かつ)朝臣(1663~1738)
    極官は従二位、権大納言。
  • 坊城(ぼうじょう)(小川坊城)俊方朝臣(1662~1688出奔?)
    極官は従三位、左大弁、参議。
  • 卜部(うらべ)(吉田)兼連朝臣((かね)(ゆき))(1653~1732)
    極官は正二位、非参議。

〈公卿〉

  • 正親町(おおぎまち)三條(さんじょう)實久(さねひさ)朝臣(1656~1695)
    極官は正三位、権中納言。
  • 裏松宰相意光(のりみつ)(1652~1707)
    参議。極官は正二位、権中納言。
  • 西洞院(にしのとういん)時成(1645~1724)
    右衛門督。極官は正二位、権中納言。
  • 花山(かざん)(いん)持房((もち)(ざね))(1670~1728)
    新中納言。極官は従二位。
  • (ひろ)(はた)(とよ)(ただ)(1666~1738)
    極官は従一位、内大臣。
  • 姉小路公量(1651~1723)
    極官は正二位、権大納言。
  • 正親町(おおぎまち)公通(きんみち)(1653~1733)
    極官は従一位、権大納言。
  • 醍醐(だいご)冬基(ふゆもと)(1643~1697)
    極官は正二位、権大納言。
  • 万里(までの)小路(こうじ)淳房(あつふさ)(1653~1709)
    極官は従一位、権大納言。
  • 九條(くじょう)(すけ)(ざね)(1669~1730)
    極官は従一位、関白。
  • 鷹司(たかつかさ)兼熈(かねひろ)(1660~1725)
    極官は従一位、関白。
  • 廳官(正直)
    六位、院の雑事?
  • 今出川(いまでがわ)(これ)(すえ)(大納言)(1660~1709)
    極官は正二位、内大臣。
  • 章成(判官)
    検非違使の大・少将
  • 一條兼輝((ふゆ)(つね))(摂政)(1652~1705)極官は従一位、関白。

『院中番衆所日記』との相違点

緑字……変更、赤字……削除(屏風には描かれていない人)

〈路頭の儀〉 貞享4年(1687326

童子2人、舎人(とねり)2人、出車網代(あじろ)庇車(ひさしぐるま)(ぎょう)(よう)(もん))、(くるま)(ぞえ)2人、(しじ)持、(はしだて)持、掛杖(かけじょう)持、殿上人、藤原兼仍、小随身2人、笠持、沓持、(ふし)(はら)(清原)宣通(のぶみち)布衣(ほい)2人、笠持、沓持、滋野(しげの)()兼成、布衣2人、笠持、沓持、橋本(さね)(まつ)、小随身2人、笠持、沓持、藤波(のり)(ただ)、布衣2人、笠持、沓持、勧修寺(かじゅうじ)尹隆、小随身2人、笠持、沓持、船橋相起、布衣2人、笠持、沓持、烏丸(からすまる)(のぶ)(さだ)、布衣2人、笠持、沓持、鷲尾(わしのお)(たか)(なが)、小随身2人、笠持、沓持、甘露寺(かんろじ)輔長、小随身2人、笠持、沓持、裏辻季盛、小随身2人、笠持、沓持、葉室(はむろ)頼重、布衣2人、笠持、沓持、正親町(おおぎまち)三條(さんじょう)公光(きんみつ)、小随身2人、笠持、沓持、桜井兼供朝臣、小随身2人、布衣2人、風早(かざはや)公前朝臣、小随身2人、笠持、沓持、阿野實字朝臣、小随身2人、笠持、沓持、花園公晴朝臣、小随身2人、笠持、沓持、四條隆安朝臣、小随身2人、笠持、沓持、冷泉(れいぜい)(ため)(つね)朝臣、小随身2人、笠持、沓持、石井(いわい)(ゆき)(とよ)朝臣、布衣2人小随身2人、笠持、沓持、平松時方(ときかた)朝臣、布衣2人、笠持、沓持、吉田(卜部(うらべ))兼連朝臣、小随身2人、笠持、沓持、坊城(小川坊城)俊方朝臣、布衣2人、笠持、沓持、(その)(もと)(かつ)朝臣、小随身2人、笠持、沓持、公卿、小随身2人、笠持、沓持、正親町(おおぎまち)三條(さんじょう)實久朝臣、小随身2人、笠持、沓持、如木2人、裏松宰相(参議)意光(のりみつ)、布衣2人、笠持、沓持、小随身2人、右衛門督、小随身2人、笠持、沓持、諸大夫2人、衛府長、花山(かざん)(いん)持房(持實)(新中納言)、布衣2人、(布衣2人、)笠持、沓持、諸大夫2人、衛府長、(ひろ)(はた)(とよ)(ただ)(新源中納言)、布衣2人、(布衣2人、)笠持、沓持、如木2人、姉小路公量(中納言)、布衣2人、(布衣2人、)笠持、沓持、如木2人、正親町公通(中納言)、布衣2人、(布衣2人、)笠持、沓持、諸大夫2人、衛府長、醍醐(だいご)冬基(ふゆもと)(大納言)、布衣2人、(布衣2人、)笠持、沓持、如木2人、万里(までの)小路(こうじ)淳房(大納言)、布衣2人、(布衣2人、)諸大夫3人、随身2人、(随身2人、)九條(くじょう)(すけ)(ざね)(左大将)、(随身2人、)番頭、(番頭1人、)随身4人、笠持2人、沓持2人、(笠持2人、沓持2人、)諸大夫2人、随身2人、(随身2人、)鷹司(たかつかさ)兼熈(かねひろ)(右大臣)、随身2人、(随身2人、)番頭、笠持、沓持、笠持、沓持、御随身6人(藤原武濟・下毛(しもつけ)()武有・身人部清昌・源武矩・身人部清定・秦武重)、童子4人、舎人4人、御車檳榔(びろう)(ひさし)(ぐるま)八葉(はちよう)(もん))、御車副8人、(しじ)持、(はしだて)持、掛杖(かけじょう)持、雨皮(あまかわ)持、下﨟随身6人(秦武和・藤原信友・秦武貞・身人部清高・身人部重長・下毛野武辰)、廳官(正直)、召次6人、御厩(みまやの)別当(べっとう)、諸大夫、(諸大夫、)衛府長、今出川(いまでがわ)(これ)(すえ)(大納言)、布衣2人、(布衣2人、)笠持、沓持、御後官人、看督(かどの)(おさ)2人、()(ちょう)2人、章成(判官)、笠持、沓持、諸大夫5人、笠持3人、沓持3人、随身4人、摂政一條兼輝((ふゆ)(つね))、番頭、随身6人、笠持、沓持、番頭8人如木6人

〈東山天皇即位式〉 貞享4年(1687)4月28日

第113代東山天皇((あさ)(ひと)親王)

一條兼輝((ふゆ)(つね))(摂政)、裏松宰相(参議)意光(のりみつ)卜部(うらべ)(吉田)兼連朝臣((かね)(ゆき))、平松時方朝臣、石井(いわい)(ゆき)(とよ)朝臣、二条(つな)(ひら)大納言、勧修寺(かじゅうじ)経慶前大納言、坊城(小川坊城)俊方朝臣、久我(こが)(みち)(とも)大納言、(ひろ)(はた)(とよ)(ただ)(新源中納言)、万里(までの)小路(こうじ)淳房大納言、東園(ひがしぞの)基量(もとかず)中納言、船橋相起(弘賢(ひろかた))朝臣、四條(しじょう)隆安(たかやす)朝臣、阿野實字朝臣、桜井兼供朝臣、冷泉(れいぜい)(ため)(つね)朝臣、花園公晴朝臣、綾小路有胤朝臣、園池公屋朝臣、萩原員従(信成)朝臣

「東山天皇御即位式・霊元(れいげん)上皇御譲位行列図屏風」を描いた狩野(かのう)(かげ)(のぶ)伯圓(はくえん))は、加賀藩の江戸御用詰め御用絵師で、加賀藩5代藩主前田綱紀(つなのり)(1643~1724)に仕えました。綱紀は、霊元(れいげん)上皇とも接点があり、綱紀が狩野伯圓(はくえん)(まさ)(のぶ)(1642~1726)に描かせたと思われます。元禄(げんろく)期(1688~1704)頃に描かれたと思われます。正確に描くことではなく、祝祭的な光景を描く、「絵空事(えそらごと)」です。(細見美術館 岡野智子論文より)

※霊元上皇の女二宮(栄子)は綱紀の側室です。

参考文献

  • 『基煕公記』『院中番衆所日記』『東山天皇紀』
  • 藤岡通夫『京都御所』新訂 中央公論美術 1987年