屏風について
まず屏風について、「双」は二つの屏風が一揃の物であることをいいます。「隻」は一つの屏風で成り立っている物、又は一対の片方の物の意味(「半双」ともいう)で、向かって右側を右隻(右に落款がある)、左側を左隻(左に落款がある)といいます。また、向かって右から第一扇、第二扇と数えます。
「東山天皇御即位式・霊元上皇御譲位行列図屏風」の場合は、六曲一双になります。
この一双の屏風に描かれている内容は、古制の復興とは程遠い内容であり、結論としては、全体に寛永有職(応仁・文明の乱以降の混迷した有職)の影響を受けているように思われます。(※寛永年間:1624~1644)
この屏風を描いた絵師の狩野景信(伯圓)は、加賀藩の江戸御用詰御用絵師です。そのため、実際の内裏等や即位式を見ていないので、資料のみで描いており、この屏風はあくまでも絵空事です。
右隻 東山天皇御即位式
貞享4年(1687)4月28日(グレゴリオ新暦では6月7日)、113代東山天皇御即位式の様子を描いたものです。
この延宝度(1675)の御造営の建物(内裏)は、宝永5年(1708)に焼失するまでに約30数年存続していました。
紫宸殿の規模は、慶長度から宝永度に至るまでほとんど変化はありませんでした。
正面7間側面5間、西側に3間に1間の西廂が付属しています。東には御膳宿があります。
紫宸殿中央の間は13尺5寸で、他は10尺5寸、東西の廂の間は13尺5寸です。この時の蔀戸は半蔀で、現在の物(蔀)とは違う点です。
廂の周囲の落縁で、四方に高欄をめぐらしてありましたが、古制の簀子縁ではなく、壁面と直角に板を張る切目敷の板縁でした。正面に向拝があり、三つ斗栱と蟇股を用いています。
西廂の屋根は、柿葺でした。また屏風の画では、板縁の柱は角柱になっていますが、実際は丸柱であろうと思われます。さらに、東階には高欄がなく、西側には階段がありません。
また、延宝度には、南御門(承明門代)にあたる西側腋門(穴門)があり、この部分に関しては合致しています。
なお画では、南御門(承明門代)の屋根が唐破風ですが、切妻が本来の形です。四つ足は角柱であるべきですが、丸柱に描かれています。
112代霊元天皇(在位:1663~1687)は、皇室行事等の復興に取り組みました。この東山天皇の即位式は、略儀ながらの再興でした。また大嘗祭(11月16日)においても復興されました。大嘗祭は、221年以上行われておらず、即位式も簡易でした。考証等はかなり無理がありますが、『御即位式図譜』(江戸時代後期)には、この当時に使用されている調度関係等の資料が描かれています。
大嘗祭は文正元年(1466)の103代後土御門天皇の時以来です。この時代のものとして、『文安御即位調度図』(1444)があります。
104代後柏原天皇から112代霊元天皇までは大嘗祭がありませんでした。
屏風を見てみると、束帯を着用している者は、表袴はすべて窠に霰文の袴を着しています。基本では、四位以下は無文白平絹の表袴を着用します。公卿は若年は窠に霰文、壮年は八藤丸です。
ただ、一日晴の時は、表袴は窠に霰文の袴であろうと思われますが、南階の左近衛の次将の表袴は無文白平絹であり、右近衛の次将は窠に霰文の袴であり疑問が残ります。
表袴の文様は禁色であるので、禁色聴許が必要です。先にも述べたように、儀式では官位相当ではなく、位が高い者が低い官を行う場合があり、自分の位袍の当色(色目)より下の装束を着すると思われますが、この時は、自分の当色の装束を着しているように思われます。
(袍と袴が合わない、又は下位の役でも上位の装束を着している?)
礼服の主殿・図書寮官人は白表袴であろうと思われます。
中務省内舎人は、随身と同じ(舎人随身)であるので、弓・壺胡簶を着けるべきです(『東山天皇紀』・『基煕公記』)。
本来、随身の蛮絵は、左が獅子・右が熊ですが、花金箔押しが描かれています。これも寛永有職の影響を受けていると思われます。
左右衛門(官位相当は大尉従六位上)は、縫腋袍を着用していますが、本来は闕腋袍にすべきで、巻纓の冠に緌・弓・平胡簶を着するべきです(『東山天皇紀』・『基煕公記』は闕腋袍です)。
礼服等の履き物は烏皮履であり、束帯装束は平安以降では、儀式は靴沓であると思われますが、まちまちです。浅沓は烏皮履が変化したものです。
殿上の間の4尺台盤の所の厚畳は、両面縁であるかもしれませんが高麗縁です。
太刀についても、帯びている者、いない者がおり、一日晴の時であるとしたら、役に応じて帯びる必要があるのではないかと思われます。
高御座の浜床の間が、四面であり、鳳凰・麒麟等の画がありません(実際は三面)。
銅烏幢(烏形幢)が2本足ですが、第42代文武天皇の即位以来、宮中の重要儀式では三足烏をかたどった銅烏幢に日月を象徴する日像幢と月像幢を伴って飾っていたことが知られますが、神宮文庫の『文安御即位調度之図』(文安元年記録)の写本からは、この日像幢が丸い金銅の地に赤く烏を描いたものであったことが確認されています。
龍像纛赤地金色が東、龍像纛黄地青色が西となっていますが、『東山天皇即位之図』(小原家)では東西が逆に描かれています。
近代では、26旒の旛が飾られています。大正から令和の即位式では、庭上には、萬歳旛(東西)・日像纛旛(東)・月像纛旛(西)・頭八咫烏形大錦旛(東)・霊鵄形大錦旛(西)・中錦旛(東5西5)・小錦旛(東5西5)が飾られました。
内弁の座っている椅子が床子ですが、本来は兀子です。
飾金具は、銅板を銀メッキしてから、金を塗ります(金鍍金)。
屏風の絵と『東山天皇即位之図』(小原家)と『東山天皇紀』・『近衛基煕公記』とは多くの違いがあります。
以上、結論として、全体に寛永有職(混迷した有職)の影響を受けているように思われます。
左隻 霊元上皇御幸移徙
貞享4年(1687)3月26日に行われた霊元上皇の御幸の様子を描いたものです。
こちらも右隻と同様、束帯を着用している者は、表袴はすべて窠に霰文の袴を着ています。
また、袍に関しても官位相当ではないようです。
右隻と同じく、官位相当ではなく、位の高い者が低い官を行う場合があり、自分の位袍の当色(色目)より下の装束を着すると思われますが、この時は自分の当色の装束を着しているように思われます。
(袍と袴が合わない、又は下位の役でも上位の装束を着している?)
履き物は烏皮履を履いています。強装束では、浅沓に替わっているように思われます。武官は靴沓であろうと思われますが、この時代は文武官とも鹵簿の時は靴沓を用いたと思われます。
大臣・大将は、本府随身の弓に裾を懸けます。また5尺以下は上手に懸けますが、屏風にもその通りに描かれています。
行列は、御所(内裏)の南側を進んでいるように見えますが、右隻に描かれている南御門(承明門代、丸柱)と左隻の南御門(角柱)が違うように思われます。
また屏風では、仙洞御所の門の位置が延宝度の御造営とは異なります。
貞享元年(1684)4月5日焼失後、敷地は後水尾院の敷地を使用しています。後水尾院の敷地の他、東福門院の敷地の一部が加えられました。南築地に開けられていた門2カ所はいずれも閉ざされて築地とし、その中間西寄りに新たに四足門を設けています。東福門院の台所門を台所門として使用しています。
主要な建物は、北へ一直線に配置され、東側の庭が広くとられています。文庫との間を塀が仕切っています。貞享2年(1685)に建て直された御所は、貞享4年(1687)3月26日に霊元院御所となります。
また、屏風に描かれている院御所は、延宝5年(1755)に描かれた絵図にも合致しません。禁裏南築地に唐門(向唐破風門)があるこれは、宝永6年(1709)の宝永度の御造営の時のものです。
結論は、この霊元上皇の御幸は、どこを歩いているのかわからないのが現状です。
出車が四足(脚)門から入るとありますが、棟門を入った北側に四足門(東面)が見えます。なぜこの場所に四足(脚)門があるのか疑問です。
またこの頃は、築地は五線であると思われます。五線は天正度(1590)からです。
出車の牛車は、網代庇車で、文様から杏葉車であるといえますが、庇車にしているので、蘇芳簾です。下簾は蘇芳末濃で、立袖のところまで簾があるのが疑問です。
御車の牛車は、檳(枇)榔庇車で、文様から八葉車に枇榔を葺いたようです。庇車(毛車)にしているので、蘇芳簾にしています。よって下簾は蘇芳の末濃であるべきです。また鵄尾がなく、立袖のところまで簾があるのが疑問です。雨皮掛は撞木ですが違う。出車には、掛杖持ちが一人、掛杖が2本あります。
出車の後ろに青色袍(麹塵)を来た殿上人の伏原宣通(蔵人)がいます。これは非常に珍しい袍です。
召具等の太刀紐の垂があるのは疑問です。
看督長と火長の胡簶が同じですが、火長は通常狩胡簶(箙)です。また布衣を着用していますが、本来は褐衣です。
看督長と火長が同じ装束です。屏風では烏帽子をかぶっていますが、これも疑問です。
看督長の装束は、細纓・緌・褐衣(茶)・壺胡簶・黒弓で、火長の装束は、細纓・緌・褐衣(桃花)・狩胡簶・赤弓です。太刀と葈脛巾は共通です。また退紅の褐衣もあります。
三役者の召具(笠持・沓持)の人数が『院中番衆所日記』とは異なります。
御随身は、上皇(院)の警護に当たります。本府随身と小随身は、左右近衛府の舎人から選ばれます。
随身の袍の色目は、縹、藍ですが、御随身は浅縹、本府・小随身は縹・浅縹・褐衣(茶)、下﨟随身は二藍ではないかと思われます。通常晴の列には、衛府の随身は蛮絵の装束を着ますが、この場合は不明です。
御車関係では、車副は紺の布衫を着ています。牛童は、屏風では二藍ですが実際は桃色の布衫であると思われます。
大臣・左大将は、随身が弓で裾を持ちます。
以上、左隻を見てきましたが、結論として、全体的に寛永有職(混迷した有職)の影響を受けているように思われます。
東山天皇の即位式について
東山天皇の即位式は貞享4年(1687)4月28日に行われました。この時東山天皇(1675~1710)は13歳でした。
そのほか、屏風に登場する人々をご紹介します。
- 一條冬経(晩年は兼輝)(1652~1705)摂政
- 摂政、36歳。極官は従一位、関白。
- 近衛基煕(1648~1722) 内辨
- 左大臣、40歳。極官は従一位、関白・太政大臣。
- 久我通誠(1660~1719) 外辨
- 大納言。極官は従一位、大納言。
- 東坊城長詮(1647~1711)
- 式部権大輔。極官は正二位、権大納言。
- 万里小路淳房(1653~1709)
- 大納言、36歳。極官は従一位、権大納言。
- 東園基量(1653~1710)宣命使
- 中納言、35歳。極官は正二位、権中納言
- 廣幡豊忠(1666~1737)
- 新源中納言、22歳。極官は従一位、内大臣。
- 裏松意光宰相(1652~1707)
- 参議、36歳。極官は正二位、権中納言。
- 長谷忠能(1649~1687)左近衛府大将代
- 39歳。極官は従四位上、兵部権大輔。
- 船橋相起(弘賢)(1647~1714)典儀
- 41歳。極官は正二位。
- 平松時方朝臣(1651~1710)擬侍従(左)
- 極官は従二位、権中納言。
- 西洞院時成(1645~1724)擬侍従(左)
- 右衛門督、43歳。極官は正二位、権大納言。
- 萩原員従朝臣(信成)(1645~1710)擬侍従(左)
- 極官は正三位、右衛門佐。
- 卜部(吉田)兼連朝臣(兼敬)(1653~1732)擬侍従(右)
- 極官は正二位、非参議。
- 石井行豊朝臣(1653~1713) 擬侍従(右)
- 極官は従二位、権中納言。
- 油小路隆眞(1660~1729) 擬侍従(右)
- 左衛門督、28歳。極官は正二位、権大納言・民部卿。
霊元上皇の移徙について
〈殿上人〉
- 伏原(清原)宣通(1667~1741)
蔵人。極官は正二位。 - 藤原(山井)兼仍(1671~1719)
極官は正三位、治部卿。 - 滋野井兼成(公澄)(1671~1756)
極官は正二位、権大納言。 - 橋本實松(1672~1732)
極官は従二位、権中納言。 - 藤波徳忠(1670~1727)
極官は従二位、神祇大副(大中臣)。 - 勧修寺尹隆(1676~1722)
極官は正三位、権中納言。 - 船橋相起(弘賢)(1647~1714)
極官は正二位。 - 烏丸宣定(1672~1692)
極官は従四位上、左中弁、蔵人頭。 - 鷲尾隆長(1673~1736)
極官は正二位、権大納言。 - 甘露寺輔長(1675~1695)
極官は正四位上、右大弁、蔵人頭。 - 裏辻季盛(1664~1688)
極官は従四位下、右少将。 - 葉室頼重(1669~1705)
極官は従二位、権中納言。 - 正親町三条公光(公統)朝臣(1668~1719)
四位。極官は正二位、権中納言。 - 桜井兼供朝臣(1659~1730)
極官は正三位。 - 阿野實字朝臣(1665~1690)
極官は従四位上、左中将。 - 風早公前(公長)朝臣(1666~1723)
極官は従二位、参議。 - 四條隆安朝臣(1663~1720)
極官は従三位、権中納言。 - 花園公晴(1662~1736)
極官は正二位、権中納言。 - 石井行豊(1653~1710)
極官は従二位、権中納言。 - 冷泉為経(頼廣・為直)(1654~1722)
極官は正二位、権大納言。 - 平松時方朝臣(1651~1710)
極官は従二位、権中納言。 - 園基勝朝臣(1663~1738)
極官は従二位、権大納言。 - 坊城(小川坊城)俊方朝臣(1662~1688出奔?)
極官は従三位、左大弁、参議。 - 卜部(吉田)兼連朝臣(兼敬)(1653~1732)
極官は正二位、非参議。
〈公卿〉
- 正親町三條實久朝臣(1656~1695)
極官は正三位、権中納言。 - 裏松宰相意光(1652~1707)
参議。極官は正二位、権中納言。 - 西洞院時成(1645~1724)
右衛門督。極官は正二位、権中納言。 - 花山院持房(持實)(1670~1728)
新中納言。極官は従二位。 - 廣幡豊忠(1666~1738)
極官は従一位、内大臣。 - 姉小路公量(1651~1723)
極官は正二位、権大納言。 - 正親町公通(1653~1733)
極官は従一位、権大納言。 - 醍醐冬基(1643~1697)
極官は正二位、権大納言。 - 万里小路淳房(1653~1709)
極官は従一位、権大納言。 - 九條輔實(1669~1730)
極官は従一位、関白。 - 鷹司兼熈(1660~1725)
極官は従一位、関白。 - 廳官(正直)
六位、院の雑事? - 今出川伊季(大納言)(1660~1709)
極官は正二位、内大臣。 - 章成(判官)
検非違使の大・少将 - 一條兼輝(冬経)(摂政)(1652~1705)極官は従一位、関白。
『院中番衆所日記』との相違点
☆緑字……変更、赤字……削除(屏風には描かれていない人)
〈路頭の儀〉 貞享4年(1687)3月26日
童子2人、舎人2人、出車(網代庇車杏葉文)、車副2人、榻持、棧持、掛杖持、殿上人、藤原兼仍、小随身2人、笠持、沓持、伏原(清原)宣通、布衣2人、笠持、沓持、滋野井兼成、布衣2人、笠持、沓持、橋本實松、小随身2人、笠持、沓持、藤波徳忠、布衣2人、笠持、沓持、勧修寺尹隆、小随身2人、笠持、沓持、船橋相起、布衣2人、笠持、沓持、烏丸宣定、布衣2人、笠持、沓持、鷲尾隆長、小随身2人、笠持、沓持、甘露寺輔長、小随身2人、笠持、沓持、裏辻季盛、小随身2人、笠持、沓持、葉室頼重、布衣2人、笠持、沓持、正親町三條公光、小随身2人、笠持、沓持、桜井兼供朝臣、小随身2人、布衣2人、風早公前朝臣、小随身2人、笠持、沓持、阿野實字朝臣、小随身2人、笠持、沓持、花園公晴朝臣、小随身2人、笠持、沓持、四條隆安朝臣、小随身2人、笠持、沓持、冷泉為経朝臣、小随身2人、笠持、沓持、石井行豊朝臣、布衣2人、小随身2人、笠持、沓持、平松時方朝臣、布衣2人、笠持、沓持、吉田(卜部)兼連朝臣、小随身2人、笠持、沓持、坊城(小川坊城)俊方朝臣、布衣2人、笠持、沓持、園基勝朝臣、小随身2人、笠持、沓持、公卿、小随身2人、笠持、沓持、正親町三條實久朝臣、小随身2人、笠持、沓持、如木2人、裏松宰相(参議)意光、布衣2人、笠持、沓持、小随身2人、右衛門督、小随身2人、笠持、沓持、諸大夫2人、衛府長、花山院持房(持實)(新中納言)、布衣2人、(布衣2人、)笠持、沓持、諸大夫2人、衛府長、廣幡豊忠(新源中納言)、布衣2人、(布衣2人、)笠持、沓持、如木2人、姉小路公量(中納言)、布衣2人、(布衣2人、)笠持、沓持、如木2人、正親町公通(中納言)、布衣2人、(布衣2人、)笠持、沓持、諸大夫2人、衛府長、醍醐冬基(大納言)、布衣2人、(布衣2人、)笠持、沓持、如木2人、万里小路淳房(大納言)、布衣2人、(布衣2人、)諸大夫3人、随身2人、(随身2人、)九條輔實(左大将)、(随身2人、)番頭、(番頭1人、)随身4人、笠持2人、沓持2人、(笠持2人、沓持2人、)諸大夫2人、随身2人、(随身2人、)鷹司兼熈(右大臣)、随身2人、(随身2人、)番頭、笠持、沓持、笠持、沓持、御随身6人(藤原武濟・下毛野武有・身人部清昌・源武矩・身人部清定・秦武重)、童子4人、舎人4人、御車(檳榔庇車八葉文)、御車副8人、榻持、棧持、掛杖持、雨皮持、下﨟随身6人(秦武和・藤原信友・秦武貞・身人部清高・身人部重長・下毛野武辰)、廳官(正直)、召次6人、御厩別当、諸大夫、(諸大夫、)衛府長、今出川伊季(大納言)、布衣2人、(布衣2人、)笠持、沓持、御後官人、看督長2人、火長2人、章成(判官)、笠持、沓持、諸大夫5人、笠持3人、沓持3人、随身4人、摂政一條兼輝(冬経)、番頭、随身6人、笠持、沓持、番頭8人、如木6人
〈東山天皇即位式〉 貞享4年(1687)4月28日
第113代東山天皇(朝仁親王)
一條兼輝(冬経)(摂政)、裏松宰相(参議)意光、卜部(吉田)兼連朝臣(兼敬)、平松時方朝臣、石井行豊朝臣、二条綱平大納言、勧修寺経慶前大納言、坊城(小川坊城)俊方朝臣、久我通誠大納言、廣幡豊忠(新源中納言)、万里小路淳房大納言、東園基量中納言、船橋相起(弘賢)朝臣、四條隆安朝臣、阿野實字朝臣、桜井兼供朝臣、冷泉為経朝臣、花園公晴朝臣、綾小路有胤朝臣、園池公屋朝臣、萩原員従(信成)朝臣
「東山天皇御即位式・霊元上皇御譲位行列図屏風」を描いた狩野景信(伯圓)は、加賀藩の江戸御用詰め御用絵師で、加賀藩5代藩主前田綱紀(1643~1724)に仕えました。綱紀は、霊元上皇とも接点があり、綱紀が狩野伯圓万信(1642~1726)に描かせたと思われます。元禄期(1688~1704)頃に描かれたと思われます。正確に描くことではなく、祝祭的な光景を描く、「絵空事」です。(細見美術館 岡野智子論文より)
※霊元上皇の女二宮(栄子)は綱紀の側室です。
参考文献
- 『基煕公記』『院中番衆所日記』『東山天皇紀』
- 藤岡通夫『京都御所』新訂 中央公論美術 1987年