宇多法皇と仁和寺の創建(上)

本題に入る前に少し余分な事を申し上げたいと思います。 
今年(令和元年)は元号が「令和」となり、新天皇がお立ちになりまして、先般来、即位礼も大嘗祭も順調に進んで参りました。

大嘗祭はタベモノの祭り

とりわけ11月14日の夜から15日未明にかけて大嘗祭が行われました。これは夜のお祭りですが、今回は宮内庁から相当沢山の映像が出されました。

その中で何が行われていたのか。簡単に申しますと、これは実は毎年11月23日に行われる新嘗祭と本質的に同じお祭りです。新嘗祭は、皆さんの近くにある神社でも行われていますが、秋過ぎに新しく収穫されたお米と、宮中ではあわせて粟あわもお供えになります。お米だけでなく粟をお供えするのは大事なことなのです。お米はどこでも作れますが、粟は今や作れない地方が増えています。残念な事です。

日本人は縄文時代から、粟、稗ひえ、黍きび、豆など畑でできるものを食べていましたが、やがて弥生時代からお米が普及して主食になりました。それ以来、日本人は水田でとれるお米と、畑でとれる雑穀をあわせて作ってきたわけです。もし水田でお米がとれない時は、畑で獲れるものを食べてきました。常用食だけでなく非常食も大事なことを忘れない、という智恵のメッセージです。

ニヘ(贄)アヘ(饗)マツリ

宮中の新嘗祭は、毎年夜、夕方の2時間、暁の2時間、皇居の中の神嘉殿しんかでんで4時間行われます。この新嘗祭を大規模に行うものが大嘗祭です。新嘗祭は大和言葉でニヘアヘマツリと訓よみます。このニヘ(贄)はお供え物、アヘ(饗)は持て成すことですから、お米や粟などの新穀をお供えして神々をもてなし、感謝と祈願の誠を示す純朴なお祭りです。それを一代一度、天皇陛下が自ら大規模に行われるのが大嘗祭にほかなりません。現在、皇居の東御苑は一般公開されていますが(月・金曜は休み)、西の吹上御苑には陛下のお住まいの近くに天皇自らが種をまき、田植えも刈り取りもなさる田んぼと畑があります。

毎年の新嘗祭には、そういう皇居内で穫れたお米と粟、および全国の都道府県からお米1升と粟5合をだしてもらいます。それを集められ、ごはんとお粥を作り神饌として供えられます。宮中では蒸した強飯を「ごはん」、炊いたものを「お粥」といいます。また、お米と粟で作る甘酒のようなお酒(白酒しろきと黒酒くろき)もお供えになります。しかも、そのお下がりを陛下自らお召し上がりになる、という祭儀を毎年、夜中に2回繰り返し行われているのです。

11月下旬の夜分、寒い神嘉殿の中で2時間・2時間座って祭儀を行われるのは、大変なお務めです。
近代の皇室では、率先して洋風化し、椅子やベッドの生活ですから、正座には訓練が必要です。渡辺允まこと元侍従長の名著『天皇家の執事』(文春文庫)に書かれていますが、陛下のお部屋にお伺いしたら、座っておられた。新嘗祭で4時間正座するため、毎日1時間ほどテレビを正座で観ておられるそうです。侍従長もその間一緒に正座しないといけないから、非常に辛かったと書いておられます。そういうことを毎年なされているのです。

それを一代に一度、もっとも大規模に行う大嘗祭では、お米と粟を特別に作る所を選ばれます。今回は栃木県高根沢町が悠ゆ紀き地方、また京都府の南丹市が主基すき地方でした。そこで収穫されたお米と粟によってごはん・おかゆ・お酒を作られ、お供えになられたのです。

さらに、悠紀殿ゆきでんと主基殿すきでんの南に設けられた帳殿ちょうでんに「庭積にわづみの机つくえ代物しろもの」が並べられました。大嘗宮のうち、東日本を代表する悠紀地方のお米と粟により神饌を供える悠紀殿、また西日本を代表する主基地方のお米と粟で作る神饌を供える主基殿、さらにその前に細長い帳殿があります。そこに「庭積の机代物」として、全国各地の名産品、特産品が各々(3品から5品)合計二百数十種類、ズラッと並べられます。明治以降、とりわけ大正から全国に呼びかけ行われるようになったのです。

大嘗祭というのは、新嘗祭と同じくタベモノの祭りなのです。食べ物は人間が口にするもので、他の動物が食う飯(エサ)ではありません。
人間が口にできるものは、天地自然の神々から賜ったもの、という日本古来の思いをこめて、食物を単なる「くいもの」ではなく〝たべもの〟といってきたのです。
つまり毎日、人間が食べているものは賜ったものであり、横から摂るのではなく上から頂くのです。だから日本人は食事の時に「頂きます」と言うのです。
いつも口にできるものに対して手を合わせ「いただきます」と称え、感謝の気持ちを表しているわけです。それが毎年の新嘗祭であり、一代一度の大嘗祭でもあります。
皇室は特別な事をやっているようにみえますが、それはどんな人も生きていくために一番大切な食物を、天地自然の神々から賜ったタベモノとして、その食べ物がとれたことに感謝し、また新たにできるように祈願する。これが大嘗祭であり新嘗祭なのです。

『古事記』『日本書紀』の神話にも、お米や粟などは神々から賜ったものとあります。水田からとれるお米も、畑からとれる粟、稗、黍・豆も大事だと書かれています。
それを神々から賜ったものとして感謝しながら有難くいただく、という祭りを2000年以上続けてきた。日本文化の根本は、まさにここにあると言ってよいと思います。
日本では、仏教徒であろうとキリスト教徒であろうと、毎日手を合せて「いただきます」というのが常識です。このような食べ物は人間の力だけでなく、自然の神々のお助けがないとできません。そういう神々に感謝する。この先も神々と人々に感謝しながら生きていく、という思いにつながっていきます。

令和の大嘗宮(撮影:久禮旦雄)

宇多天皇は特異な即位

本日の主題である宇多うだ天皇は歴代天皇の中でも特異な御方だとみられます。

日本の皇位継承で大事な事は、皇室に生まれ育ち、皇籍にあられる皇族である方が、天皇になられることです。
万世一系といいますが、皇族出身でも、臣籍に降りた方が天皇にはなることはできない、とされてきました。
たとえば、源氏であれ平氏であれ、もともと天皇の子孫なのですが、そういう人々が天皇になることはありえない、という長年の慣例があったわけです。
けれども、歴史上、唯一の例外が宇多天皇です。事情があって、一たん皇室を出られ源氏に降りられましたが、すぐ皇室に戻られた。そういう特異なケースであります。

桓武かんむ天皇は平安京を開かれました大帝ですが、この御方も天皇になるような事は考え難い諸王の一人でした。たまたま高齢の父君が天皇に推し立てられ、その後を承け継がれたわけです。
そのあと三人のお子さんが相次いで天皇になっていくわけですね。平城へいぜい・嵯峨さが・淳和じゅんなと続くわけです。そのあと嵯峨天皇の皇子の仁にん明みょう天皇となられ、仁明天皇のあとは文もん徳とく・清和せいわ・陽よう成ぜいと続きました。従って、この系統が継いでいくと思われていました。

けれども、陽成天皇は若くして事件を起こし、その地位をおろされた。そこで、どうしようかと言う時、仁明天皇の皇子で50代半ばという、当時では高齢の御方が、光孝こうこう天皇として即位されることになったのです。

その際の立役者は太政だいじょう大臣だいじんの藤原ふじわらの基経もとつねです。当時、藤原氏は絶大な政治権力をもっていまして、自分の娘を天皇や皇太子のお妃として、その間に生まれる皇子を次の天皇にするようなことを、奈良時代からずっとやってきました。
平安時代に入りましても、藤原氏の中で最も有力な者の娘が后妃となり、その皇子が皇位を継いでいました。
ただ、藤原基経には、国政担当者として責任感もありました。そのため、自分の妹高子たかいこが生んだ陽成天皇が宮中で馬を飼い、人をあやめるような事件を起こされると、強引に退位を迫り、やや遠縁ながら穏健な高齢の光孝天皇を擁立したわけです。

光孝天皇 勝川春章 画『錦百人一首あつま織』,鳫金屋儀助,安永4 [1775]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2533227 (参照 2026-08-05)

高齢の光孝天皇即位

そこで、即位された光孝天皇は、あくまで中継ぎのリリーフにすぎないと自覚され、自分の子孫に皇位への望みを断つため、皇子・皇女たちを皇族の身分から離し源氏に降ろしてしまわれました。

ところが、親としての情というか、しばらくして御病気になられますと、皇位を自分の息子に継がせたい、という思いを示されました。それは当時「源みなもとの定省さだみ」という名前になっておられましたが、源氏になってわずか2年ですから、まだ皇族の意識が高いとみられ、その御方に皇位を継いで頂く事になったのです。

前述のとおり、わが国では、皇室に生まれ育たれた皇族の身分にある方が皇位を継ぐことになっていました。奈良時代の終わりころ、称徳しょうとく女帝の看病僧であった道鏡どうきょうの取り巻きが、九州の宇佐八幡より「道鏡を天皇の位につければ天下泰平になる」というような神託を伝えてきました。びっくりされた称徳女帝が、和気清麻呂わけのきよまろを宇佐八幡に遣して、神託の真偽を伺わせられたところ、「皇位を継ぎうるものは、必ず皇族でなければならない」と言われ、道鏡の野望はストップされたわけです。

しかし、宇多天皇の場合は、元来皇室に生まれ育たれた方であり、特殊な事情で源氏に降されましたが、僅か2年の事であり、しかも藤原基経まで認めましたから、辛うじて実現したわけです。(続く)

※本稿は令和元年 11月17日(日)に仁和寺にて行われた講演「宇多法皇と仁和寺の創建」の記録が『六大新報』令和2年新年号に掲載されたものに加筆・修正を加えたものです。