宇多天皇と関白藤原基経
この宇多天皇は、幼い時から仏教に関心をもたれ、10代より早く出家がしたいと願われていました。しかし母君の班子女王から「もう少し世間に留まり、然るべき役割を果たしてからにするべきだ」と説得された。そして源氏に降されながら、20歳で天皇になられ、在位10年、30歳で譲位してしまわれ、まもなく仁和寺で出家され法皇になられたのです。その在位10年の間に沢山の大きな仕事をなされましたが、非常な苦労もしておられます。
まず自分の即位を認めてくれた藤原基経に感謝の意を表そうとして、即位直後に「万機に関り白せ」との詔書を出され、しかも「阿衡の任を以て卿(基経)の任と為すべし」との勅書を下されました。それは日本には関白の例がないけれども、中国では阿衡に相当する高い地位だから、ぜひお願いしたい、との勅書を出されたのです。
ところが、中国では「阿衡」は名誉のみで実権がないようだから、天皇は基経を遠ざけようとしているのではないか、と曲解する者が出てきました。すると、基経はそれを信じて、自宅にひきこもり朝廷へ出てこない。そのため役人が困りはて、朝廷から決裁を仰ごうと出向いても、書類に署名すらしない、というボイコットを続けたのです。これが半年も1年も続くと、宇多天皇は困ってしまわれた。天皇は一たん言ったり書いたりしたことを変えてはなりません。それにも関わらず先に作った詔勅を取り消すと仰せられました。その結果、ようやく基経の機嫌が治りましたけれども、まさに苦渋の決断を下されたわけです。

国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/778240 (参照 2026-08-06)
現憲法下での天皇
ちなみに、現行憲法下においても、天皇陛下は、実に多くのお仕事を、かなり苦心しながらやっておられます。現行憲法に「天皇は日本国の象徴」と定められています。しかし、一方で「天皇は国事に関する行為のみを行ふ」と制約されています。そのため、国会で多数決により指名される総理大臣を任命したり、法律・政令・条約の公布手続きとして、自ら署名され公印をおさしめられるような、いわば形式的公務をされるのみだ、と理解されてきました。
ところが、実態は決してそうではありません。特に平成の天皇は、憲法に「天皇は日本国民の統合の象徴」と定められているのであるから、統合の象徴として、日本国民が何を考え何を願っているのか、何に悲しみ何に悩んでいるのか、可能なかぎり知ろうとして、皇居の中だけでなく全国各地へ出かけられ、その過程で自分のなすべき事、なしうる事を、常に考えながらやってこられたのです。
天皇陛下のなさることを「聞こしめす」とか「知ろしめす」と申すことがあります。これは、国民の事を可能な限り聞こうとし知ろうとしておられるからです。
天皇陛下は、全国民の事を積極的にお聞きになりたい、お知りになりたいと願っておられます。各地へ行幸されたときもそうですが、とりわけ被災地などにいかれた時は、まず当事者や関係者に親しくお尋ねになられます。

人の顔をみて話を聞く事
それにはこういうエピソードがあります。皇太子明仁殿下が中学の終わり(昭和24年)から東宮職常時御教育係を務めておられた小泉信三先生は、将来天皇になる御方に心がけて欲しいのは、「人の顔をみて話を聞く事、そのうえで人の顔をみて物をいうこと」と教えられました。
これは順序が逆ではなりません。まず人の顔を見てしっかり人の話を聞き、その上で相手の顔を見ながら話しかける、ということが大切です。そのような訓育をうけられた平成の天皇は、まず人の顔をみてから、その人が何が言いたいのか、何を求めているのかを聞かれたうえで、その人の顔を見ながら物を言うように心がけ、実行してこられました。とりわけ被災地では、まず顔を見て相手のお話を聞かれてから、その人の気持ちに沿った御言葉をかけられます。だからまさに心の中に分け入って、お気持ちを届ける事ができる。これが象徴天皇の務めなのです。もちろんやりたいと思われても、出来ない事が多くあります。たとえば、海外の慰霊は簡単にはできません。天皇は先方から招待がないと海外にでられないからです。
しかし、先の大戦で200万以上の人々が亡くなっており、そのうち100万人が海外で亡くなっています。その慰霊をしたいと早くから仰られ、政府がだんだん調整して、相手の国からきてもらった答礼として、お出かけになられたのです。(続く)
※本稿は令和元年 11月17日(日)に仁和寺にて行われた講演「宇多法皇と仁和寺の創建」の記録が『六大新報』令和2年新年号に掲載されたものに加筆・修正を加えたものです。