狩衣の構成
- 狩衣
- 立烏帽子(紙捻)、単、指貫(奴袴)八幅、袍、当帯、末広(中啓)、蝙蝠(夏用)又はボンボリ、浅沓、兵仗剣(勅許の場合)
元は布製であったので「布衣」といいました。また、布衣と読むと狩衣類全般を表します。
元々庶民の衣服でしたが、着勅が着用するようになると絹製になり、秋の小鷹狩などに使用され狩衣と呼ばれました。なお、冬の大鷹狩には水干を用いました。
12世紀、院政期以降になると、狩衣も私的な服装になっていきます。
狩衣は文様があり、布衣にはありませんでした。また、かぶり物についても、狩衣は立烏帽子、布衣は風折烏帽子を用いました。
なお、天皇と皇太子は狩衣を着用しませんでした。
現在神職が着用する狩衣の場合、袴は差袴(切袴)を使用します。神事の時は浄衣(白狩衣)を着用し、この時には笏を持ちます。
狩衣には禁色等の規制がなく自由でした。
狩衣の寸法
- 公卿の狩衣
- 前身頃は体より1尺長く、後身頃は4寸長い
- 殿上人の狩衣
- 前身頃は体より8寸長く、後身頃は2寸長い
殿上人の狩衣については、当帯をしめると纔着(床ぎりぎりの長さ)になりました。
なお、殿上人以上の狩衣は裏打を常としました。地下(六位以下)については、裏打はなしでした。
押折
押折とは、後身頃の左の裾を内側に折り上げて当帯の左腰に挿し込んでとめることです。馬などに乗る時にしました。
現在は既製品なので、後身頃の長さは、当帯の下で折り上げて調整しています。
袖括の緒
狩の時、袖を絞り紐で括りました。日常で活用することはありません。薄平、左右縒などの種類があり、後世になると装飾的なものとなりました。
15歳までは、置括といい、白と赤、赤と黄、黄と青、紫と青など2本ずつの左右撚りの紐を通してから広げ、毛抜形にして縫い止めたものと、2本ずつ左右より淡路結びとし、さらにその間を梅花または藤花形に結んで縫い止めたものとがあります。夏は生絹、冬は練絹の白縒り糸を2筋用います。
16歳から40歳までは、薄平といい、薄平たく組んだ紐を差し通したものを用いました。その色は紫緂(紫と白のだんだら)、萌黄緂、櫨緂、楝緂(紫・萌黄・白のだんだら)などがありました。『餝抄』には「薄平縒 或書曰 卅四五以後人不レ可レ著歟」とあります。
40歳以上からは、厚細といい、細いが肉の厚い組紐を用いました。その色は黄緂、縹緂、紺緂、香緂などがありました。
なお、薄平、厚細の袖括は裏付に限ります。
宿老(50歳以上)は白の左右撚(縒)の紐を用いました。
極老である70歳以上は、籠括といいます。これは括緒を袖口の中に入れ、袖先の露だけを垂らしたものです。
地下については年齢を問わず白の左右縒を用いました。また、殿上人も単の狩衣には白の左右縒を用いました。
狩衣の類
狩衣、浄衣、麻浄衣、布衣、水干、半尻、褐衣、退紅、黄衣(おうえ)、雑色、如木、白張(白丁)、布衫
褐衣
褐衣は随身の装束です。闕腋袍形式だったので、袖と身頃が肩の所で縫い合わされています。冠は細纓に緌をかけ、袴は襖袴(狩袴)をはきます。葈脛巾、草鞋又は麻鞋(藁沓)を履きます。このほか、衛府の太刀(野剣・尻鞘付)、弓、壺胡簶を持ちます。
晴の儀式等には、袍に「蛮絵」という紋様が描かれています。左衛府は獅子又は尾長鳥、右衛府は熊又は鴛鴦を描きます。袍の前は搔い込みます。袖括りはありません。
- 尻鞘(しりざや)
- 豹皮は四位以上、虎皮は五位、水豹(海豹)は六位。
鹿皮は五位以上及び火長(一般的)、猪皮は舞人・左右近衛府の府生(ふせい)等。
退紅
退紅とは元々色彩の名称(退色した紅色)でしたが、着る者の名称となりました。退紅は、傘持ち、沓持ち等の下部(僕)が着ていました。袴は、黒の襖袴を用いることが多いです。頭には平礼烏帽子をかぶりました。
白張(白丁)
下部の着るもので、白の麻布製でした。袴は小袴を上括ではきます。頭には張烏帽子(白丁烏帽子)をかぶります。如木(にょぼく)も同様です。
布衣
狩衣が文様があるのに対し、布衣は無文裏なしです。風折烏帽子をかぶり、袴は浅縹平絹の指貫か、表白・裏白平絹の襖袴です。扇を持ち、履き物は浅沓か緒太草履を履きます。袖括りは白の左右縒です。
布衫
布衫は麻でできており、肩が縫ってあります。色は様々なものがあり、図書寮は紺色、武官関係(衛門府)は桃色、駕輿丁は黄色(無位の当色)又は桃色もありました。
細纓冠に緌をつけ、袴は襖袴で、肩当をつけます。葈脛巾をつけて藁沓を履きます。袖括りはありません。
烏帽子の種類
立烏帽子(紙捻)、風折烏帽子(紙捻)、平礼烏帽子、白丁烏帽子(張烏帽子)、侍烏帽子、引立烏帽子
立烏帽子
通常「烏帽子」と呼ばれているものです。鎌倉時代以降に高さが低くなり、江戸時代には和紙を重ねて作り、漆を塗って固めたものとなります。通常掛緒は紙捻を使用します。紫の組掛は用いません。
蹴鞠の場合は、勅許を受け組紐を用います。40歳未満は紫、40歳以上は薄紫、50歳以上は紺を用いました。
風折烏帽子
風折烏帽子は烏帽子の上部を折り曲げたものです。上皇は右折り、それ以外は左折りで、ただし上皇から烏帽子を拝領した者は右折りをかぶることができました。また、上皇は組紐を用いました。
掛緒の掛け方は、横二筋、縦一筋です。掛緒には紙捻を使用しました。
水干
公家の水干
公家は覆水干で、狩衣と同じように着用しました。水干の裾は袴の中に入れません。上頸で、右首元で紐を結びます。
牛車の牛飼童も同じ着方をしますが、童といっても実際は大人で、童水干を着て童の髪型をしています。
武家の水干
武家の水干は、鎌倉以降発達し、豪華になりました。
童水干
童水干は、子供の服で活動的な服でした。水で洗って干すことから水干といい、簡単に洗濯ができた実用的な服です。庶民の服であるので、力がかかってほつれやすい部分を補強するために力糸がつけられていました。この力糸はのちに菊綴と糸飾りになり装飾化されました。
※烏帽子については、堂上家は立烏帽子、地下は風折烏帽子、召具は平礼烏帽子としました。
狩衣について
狩衣は公家の衣服の一種で、平常着として使われました。
元来は狩猟に用いた布製の上衣で、「猟衣」とも「雁衣」とも書かれます。奈良時代から平安時代初期にかけて用いられた襖を原型としたものであるため、狩襖ともいわれました。両腋のあいた仕立ての闕腋ですが、袍の身頃が二幅で作られているのに対して、狩衣は身頃が一幅で身幅が狭いため、袖を後身頃にわずかに縫い付け、肩から前身頃にかけてあけたままの仕立て方となっています。平安時代後期になると、絹織物製の狩衣も使われ、布(麻)製のものを布衣と飛ぶようになりました。狩衣の着装は腰に帯を当てて前に回して締めますが、この帯を当帯または当腰といいます。
狩衣は上皇、親王、諸臣の殿上人以上が用い、地下は布衣を着ました。狩衣姿で参朝することはできませんでしたが、院参は許されていました。
狩衣装束の構成は烏帽子、狩衣、衣、単、指貫、下袴、扇、帖紙、浅沓で、衣を省略することもありました。また指貫より幅の狭い狩袴をはくこともありました。
狩衣に冠は用いられませんが、検非違使は服装の簡略化に伴って白襖(白の狩衣)に冠をかぶり、布衣冠と称したものを用いることがありました。
殿上人以上は裏をつけた袷の狩衣を用いましたが、地下は裏をつけない単のものしか着られませんでした。地質については、平安後期以降、華美な狩衣を用いることもありました。公卿以上に二陪織物、公卿家以上の若年に浮織物、殿上人以上に固織物(先染めの綾)、練り薄物(生経練緯の穀)、顕文紗などの使用が許されました。
色目は自由で好みによりますが、当色以外のものを用いました。袷の場合は表地と裏地の組合せによるかさねの色目としました。
室町時代の有職書『雁衣抄』には、以下のようなかさねの色目が記されています。
春
- 梅……表白、裏蘇芳
- 桜……表白、裏花色
- 裏山吹……表黄、裏紅
- 藤……表薄紫、裏青
夏
- 菖蒲……表青、裏濃紅梅
- 桔梗……表二藍、裏青
- 女郎花……表黄、裏青
秋
- 檀……表蘇芳、裏黄
- 竜胆……表薄蘇芳、裏青
- 白菊……表白、裏蘇芳
- 青紅葉……表青、裏朽葉
冬
- 松重……表青、裏蘇芳
- 枯色……表香、裏青
四季通用
- 赤色……表蘇芳、裏縹
- 檜皮色……表蘇芳、裏二藍
- 海松色……表黒、裏黒青
当帯は、狩衣の表地を用います、また替帯は、束帯の下襲の表裏を用います。夏は裏がありません。
公卿以上は、表白伏蝶丸文様の固地綾、裏黒菱文の固地綾としました。
表裏の色目が変わる時は、表をやや狭めて3分ぐらい裏が見えるようにします。夏には、蘇芳の遠菱文縠織としました。
殿上人以下は、冬は表白平絹で、夏は二藍縠織とし、冬・夏とも無文でした。
宿徳(宿老)の人は、公卿の場合は冬が表白、裏萌黄の柳重で、夏は萌黄(青朽葉)とし文様が大きくなります。
※長絹狩衣……「医師陰陽等着者、非正長絹 えせ絹也 長絹と云は如笋絹也」
※参考
「笋」もまた、「竹の子」や「筍」と同じ「竹の若芽」という意味を表します。読み方は「じゅん」で、「たけのこ」という読みは当て字になります。ちなみに「笋」と「筍」は、どちらも常用漢字表には含まれない漢字です。
「笋」はまた、「たかんな」とも読まれます。 「筍の絹皮」とは筍の穂先に近い柔らかい部分のことをいい、「姫皮」とも呼ばれています。絹皮は、筍の先端を切り落とし、外側の皮を除いた内側にある、薄く柔らかい皮です。
参考文献
- 八束清貫『装束の知識と着装』 明治図書出版 1962年
- 鈴木敬三『有職故実辞典』 吉川弘文館 1995年
- 八條忠基『有職装束大全』 平凡社 2018年