近世の内裏の造営の中で、特に「古制の復興」に重きをおかれた造営とは、江戸時代後期の寛政度の御造営と安政度の御造営です。この二つの御造営は「古制の復興」と申し、平安時代の内裏の一部を古制に則って建物等が造営されています(安政度の御造営も寛政度に基づき造営されています)。
その前に近世の御造営の概略に触れておきたいと思います。江戸時代だけでも、8回の御造営があり、その内火災で6回焼失しております。
近世の御造営
- 慶長度……内裏・後陽成院御所・中和院御所・女御々殿(元和)・仮内裏……新上東門院御所(仮内裏)
1次 慶長16年(1611)3月~慶長18年(1613)12月19日~慶長19年
2次 元和5年(1619)12月~元和7年(1621)12月 - 寛永度……内裏・仙洞御所(後水尾院)・女院御所(東福門院)・仮内裏……新院御所(明正院)
寛永18年(1641)~寛永19年(1642) - 承応度……内裏
承応3年(1654)~明暦元年(1655) - 寛文度……内裏・本院御所(明正院)・新院御所(後西院)・仙洞御所(後水尾院)・女院御所(東福門院)
寛文2年(1662)~寛文3年(1663) - 延宝度……内裏・本院御所(明正院)・新院御所(後西院)・仙洞御所(後水尾院)2回目・女院御所(東福門院)2回目・東山院御所・東宮御所・敬法門院御所
延宝3年(1675) - 宝永度……内裏・東山院御所・仙洞御所・敬法門院御所・開明門院御所・恭礼門院御所
宝永5年(1708)~宝永6年(1709) - 寛政度……内裏・仙洞御所・中宮御所・恭礼門院御所・新待賢門院御所
寛政元年(1789)~寛政2年(1790)~寛政6年(中宮御殿)~寛政12年(御三間)~文化2年(御学問所) - 安政度……内裏・大宮御所
安政2年(1855)
火災による御造営
承応度……承応2年(1653)6月23日 火災
寛文度……万治4年(1661)1月15日 火災
延宝度……寛文13年(1673)5月8日 火災
宝永度……宝永5年(1708)3月8日 火災
寛政度……天明8年(1788)1月30日 火災
安政度……嘉永7年(1854)4月6日 火災
寛政度
天明8年(1788)1月30日の朝寅半刻(午前4:30頃)、建仁寺町四条下ル二丁目の町家から出火し、2月2日午刻(昼12:00)頃に鎮火しました。これにより、内裏・後桜町院・青綺門院・恭礼門院・開明門院・皇后御殿(女御々殿)・新清和院・御里御殿・新待賢門院の各御所が焼けました。
また、この火災により、町数3,100、家数183,000、土蔵1,800が焼失しています。
この時の天皇は光格天皇でした。この火災により、光格天皇は下鴨社~聖護院、後桜町院は白河照高院~青蓮院、青綺門院は白河照高院~知恩院、恭礼門院は梶井御所~林丘寺~妙法院、開明門院は知恩院へと移りました。開明門院については、寛政元年(1789)9月22日に薨去されたので、御所造営は行われませんでした。
元文3年(1738)の大嘗祭の再興を始めとして、朝廷には、旧儀復古の気運が高まっていて、内裏にも復古の意図を持っていました。竹内式部の宝暦事件に連座して、蟄居中に『大内裏(裡)図考證』を著した裏松光世に対して、天明8年(1788)3月25日に参内を許し、4月1日に内裏造営について尋ねています。このことが寛政度の御造営へとつながっていきます。
※内裏(光格天皇)
- 釿始
- 寛政元年(1789)7月4日
- 立柱
- 寛平元年(1789)8月13日
- 上棟
- 寛政2年(1790)8月26日
- 安鎮
- 寛政2年(1790)9月26日(阿闍梨天台座主眞仁法親王)
明和5年(1768)6月7日~文化2年(1805)8月7日 妙法院宮 - 地鎮
- 寛政2年(1790)10月15日
- 移徙
- 寛政2年(1790)11月22日
- 焼失
- 嘉永7年(1854)4月6日
寛政2年(1790)10月7日には、紫宸殿南階に桜を植えました。
文化元年(1804)11月22日には、南階に橘を植えています。
寛政3年9月~11月、神嘉殿を造営します。
青綺門院については、寛政2年(1790)1月29日に薨去されたので、御所造営は中断されました。12月19日に、その地を御園として北苑と呼びました。
寛政度内裏には、女御々殿はなく、寛政6年(1794)3月1日の後桃園天皇の女一宮欣子内親王の入内に備えて、寛政5年(1793)9月から皇后御殿の作事が始められています。その後内裏では、寛政10年(1798)2月10日に無染亭、寛政12年(1800)12月2日に御三間が造営され、文化2年(1805)には御学問所の作事が行われています。
※神嘉殿
元文5年(1740)に新嘗祭復興によって、寛政度より再興する
釿始……寛政2年(1791)9月2日
上棟……寛政2年(1791)11月3日
引渡……寛政3年(1791)11月12日
寛政12年(1800)12月2日 御三間上棟
※御学問所
釿始……文化2年(1805)6月19日
立柱……文化2年(1805)8月27日
上棟……文化2年(1805)10月18日
竣工……文化2年(1805)11月23日か10月23日?
文化2年(1805)10月23日には不動法が修せられています。
仙洞御所では、寛政12年(1800)以来御庭の整備が行われています。寛政12年(1800)に八ッ橋と寿山御茶屋ができ、文化4年(1807)に桧橋が架かり、同年に醒花亭再建が出され翌文化5年(1808)3月に完成しました。
文化6年(1809)には、内裏において東宮御殿の作事があり、恭礼門院御所から南御殿を移して造営され、3月7日に地曳、居礎、立柱、4月22日に上棟されました。
※仙洞御所
文化4年(1807)4月2日 | 大御庭桧橋が出来る |
文化5年(1808)3月13日 | 醒花亭上棟 |
文化5年(1808)3月23日 | 醒花亭完成 |
文化6年(1809)4月26日 | 北の御庭なる |
文化6年(1809)9月28日 | 大御庭八ッ橋の修復始まる |
文化7年(1810)3月4日 | 八ッ橋完成 |
天保10年(1839)10月16日 | 止々斎の造営始まる |
天保10年(1839)12月2日 | 止々斎立柱 |
天保11年(1840)9月 | 止々斎完成 |
寛政12年(1800)8月11日に八ッ橋が出来、奏者番山下求馬及びその子(兵部)、孫(猪之助)の孫三代による渡り初めが行われました。
その後、同年9月28日に寿山御茶屋が完成しました。
文化4年(1807)に大御庭の桧橋が出来て、4月2日に富御所附執次・井上丹波守、上御所中詰・井上右衛門尉、孫末勤・井上左馬少允による渡り初めが行われました。
醒花亭の再建は、文化5年(1808)に上棟し、3月25日に初めて御成りとなりました。
また、八ッ橋が完成した文化7年(1810)3月4日には、富御所附勘定・伊地知主殿、上御所御使番・伊地知玄蕃、孫末勤・伊地知直記による渡り初めが行われました。
※東宮御殿
文化6年(1809)、儲君恵仁親王のため東宮御殿が、恭礼門院の旧殿の一部を移して内裏の黒戸の北に造営されています。
立柱……文化6年(1809)3月7日
上棟……文化6年(1809)4月22日
移徙……文化6年(1809)5月2日
※文化14年(1817)3月22日、恵仁親王(仁孝天皇)が践祚された後、文化15年(1818)2月から花御殿と呼ぶようになりました。
文化14年(1817)9月21日に仁孝天皇が即位され、同年12月11日に鷹司正煕の娘繋子が入内しています。この時女御々殿は新造せずに修復して使い、御里御殿が新造されています。女御繋子(新皇嘉門院)は文政6年(1823)4月3日に薨去され、文政8年(1825)3月11日に鷹司祺子の入内を迎えるにあたって、3月11日に女御々殿と御里御殿を修復することが決まり、8月3日には修復工事が終了しています。
仁孝天皇は、弘化3年(1846)2月6日に崩御され、葬儀の場となった清涼殿の上段の間(夜御殿)と御常御殿の御寝の間の模様替えが行われました。工事は、弘化3年閏5月頃から行われ、弘化4年(1847)2月24日には御常御殿に還御されました。
仁孝天皇の後宮新待賢門院(藤原雅子)は、嘉永3年(1850)8月27日に仮殿とされていた正親町殿から親殿へ移られました。
※内裏
文化10年(1813)9月30日 | 常御殿修復(光格天皇) |
文化11年(1814)2月7日 | 常御殿の修復なる |
文化12年(1815)2月20日 | 建礼門建替え |
文化13年(1816)5月29日 | 清涼殿修復 |
文化13年(1816)8月14日 | 清涼殿の修復なる |
文政元年(1818)6月26日 | 常御殿の修復なる(仁孝天皇) |
文政元年(1818)10月15日 | 大嘗宮立柱 |
文政7年(1824)6月8日 | 南階に橘を植える |
文政12年(1829)8月18日 | 常御殿の修復なる |
天保3年(1832)12月8日 | 常御殿の修復なる |
天保5年(1834) | 花御(東宮)殿修復 |
天保11年(1840)4月1日 | 花御(東宮)殿修復により、御涼所へ移る |
天保11年(1840)5月5日 | 花御(東宮)殿の修復なる |
弘化3年(1846)2月6日 | 仁孝天皇崩御 |
弘化3年(1846)閏5月 | 清涼殿・常御殿の修復始まる |
弘化4年(1847)2月28日 | 清涼殿・常御殿の修復なる |
弘化4年(1847)8月10日 | 孝明天皇即位 |
弘化4年(1847)8月11日 | 常御殿修復のため、御学問所へ移る |
弘化4年(1847)9月15日 | 常御殿の修復なる |
嘉永2年(1849)2月 | 清涼殿・常御殿の修復 |
嘉永5年(1852)7月22日 | 常御殿風害修復のため、御学問所へ移る |
嘉永5年(1852)7月24日 | 常御殿の修復なる |
嘉永6年(1853)6月 | 花御(東宮)殿修復 |
※完成後の主な修復
寛政12年(1800) | 御舂屋米蔵建て直し、引き直し修復 |
文化7年(1810) | 内侍所修復 |
文化10年(1813)~11年(1814) | 常御殿修復 |
文化12年(1815) | 建礼門屋根葺替、小御所修復屋根葺替 |
文化13年(1816) | 清涼殿修復 |
文政元年(1818) | 常御殿屋根修復 |
文政4年(1821) | 常御殿屋根修復 |
文政12年(1829) | 常御殿修復 |
文政13年(1830)~天保2年(1831) | 内侍所修復 |
天保3年(1832) | 常御殿修復 |
天保5年(1834) | 花御殿修復 |
天保11年(1840) | 花御殿修復 |
弘化4年(1847) | 清涼殿・常御殿修復 |
嘉永2年(1849) | 清涼殿・常御殿修復 |
嘉永4年(1851) | 内侍所修復 |
嘉永5年(1852) | 常御殿修復 |
嘉永6年(1853) | 常御殿修復 |
内侍所の修復は、20年毎に行われています。このために、5万石以上の大名には、築地築造のため献納金が命ぜられています。
寛政度の内裏
総面積……2万5000坪余
建物坪数……4424坪59
皇后御所の建物坪数……1119坪89
寛政度の内裏は、全体の配置が北に寄っています。
紫宸殿南庭周りに回廊と承明門が復興され、南北に並んでいた内侍所・日華門・左腋門の軒廊・陣座・宜陽殿、紫宸殿西側から東側に移り回廊に取り込まれています。
また、東築地の日之御門が南へ移されています。
※『大内裏図考證』との違い
- 宜陽殿は若干異なっている
- 新嘉殿も異なっている
- 紫宸殿東西の軒廊・陣座・南廊・土渡廊・清涼殿の殿上並び渡廊が異なる
- 小御所二列型平面から一列型に変わっている
- 常御殿の東南に「落長押の間」が張り出して設けられている
※寛政度 青綺門院御所
釿始……寛政元年(1789)8月27日
立柱……寛政元年(1789)12月27日
移徙……寛政2年(1790)1月29日 青綺門院の崩御につき移徙なし
取壊……寛政11年(1799)
青綺門院の旧地は寛政3年(1791)1月13日に後桜町院御所に引き渡され、旧殿は取り壊れてました。文化6年(1809)4月26日には、後桜町院の北苑として整備されました。
※寛政度 恭礼門院御所
釿始……寛政元年(1789)9月19日
立柱……寛政元年(1789)12月27日
上棟……寛政2年(1790)9月5日
安鎮……寛政2年(1790)10月26日
地鎮……寛政2年(1790)11月4日
移徙……寛政2年(1790)12月4日
取壊……享和2年(1802)
恭礼門院は寛政7年(1795)11月30日に薨去しました。
享和2年(1802)、南御殿などを除いて取り壊され、諸所に下賜されました。
南御殿は、文化6年(1809)に内裏に移され、恵仁親王(仁孝天皇)の東宮御殿に用いられました。
※宝永度との違い
表門は、宝永度と同様に東側の築地にありますが、宝永度は南部にあったのに対し、寛政度は北部に移りました。中心となる常御殿・南御殿を、宝永度には西側に設けていましたが、寛政度には敷地南部に配置し、さらに御黒殿を加えています。対屋を、宝永度には北側と東側北部に設けていましたが、寛政度には敷地西部に設けています。
「恭礼門院御所取解諸拝領ヶ所書」(享和2年)
関白殿……御台所一棟、塀重門一口、二階御文庫(南御池坤角)一棟
一条殿……御常御殿、御湯殿、御厠屋一棟、御車寄、二階御文庫一棟
伏見宮……公卿の間
仁和寺宮……二階御文庫一棟
妙法院宮……御服所、奥廊下
輪王寺宮……奏者所
泉涌寺……御輿寄
般舟院……御客間一棟
相国寺……御黒殿一棟
長講寺……男居
取残置分……南御殿、御文庫、惣御構築地木柵、大御門、御門番所
※寛政度 後桜町院御所
釿始……寛政元年(1789)8月1日
立柱……寛政元年(1789)11月19日
上棟……寛政2年(1790)9月5日
安鎮……寛政2年(1790)10月11日
地鎮……寛政2年(1790)10月24日
移徙……寛政2年(1790)11月26日 青蓮院から新造の仙洞御所へ移徙
文化10年(1813)閏11月2日に後桜町院が崩御し、文化14年(1817)まで空屋敷となり、その後同年3月22日より光格院御所となります。
寛政8年(1796) | 柿本社修復 |
寛政11年(1799) | 鎮守本社・末社修復 |
文化3年(1806) | 鎮守末社修復 |
文化6年(1809)~文化7年(1810) | 八ッ橋修復・常御殿修復 |
文化7年(1810) | 鎮守本社修復 |
広御所の南階の両側に梅(東側)、橘(西側)が植えられています。
広御所は、母屋の周囲に廂をめぐらし、廂の外回りはほとんど蔀としています。
※寛政度 皇后御殿(女御々殿)
釿始……寛政5年(1793)9月18日
立柱……寛政5年(1793)11月18日
上棟……寛政6年(1794)2月13日
安鎮……寛政6年(1794)2月15日
地鎮……寛政6年(1794)2月28日
移徙……寛政6年(1794)3月1日
焼失……嘉永7年(1854)4月6日
寛政3年(1791)6月30日、後桃園天皇の女一宮欣子内親王の入内が決まり、皇后御殿が造営されることになりました。
欣子内親王(新清和院)は寛政6年(1794)3月1日に入内し、7日に中宮に冊立されました。皇后御殿は、中宮御殿と呼ばれ、この中宮御殿は光格天皇が退位された後、空邸となりましたが、文化14年(1817)12月11日に仁孝天皇の女御として鷹司繋子(新皇嘉門院)が入内することになり修復されています。
新皇嘉門院は文政6年(1823)4月3日に崩御され、文政8年(1825)8月22日に鷹司祺子(新朔平門院)が入内されることになって、再び同年3月11日から修復されています。8月3日に完成し、10日から3日間常住金剛院において小修法が行われています。その後、嘉永元年(1848)~嘉永2年(1849)にかけて修復が行われています。嘉永7年(1854)4月6日に内裏とともに焼失しました。
※寛政度 光格院御所・新清和院御所
釿始……文化13年(1816)5月15日
立柱……文化13年(1816)7月24日
上棟……文化13年(1816)12月16日
安鎮……文化13年(1816)12月22日
移徙……文化14年(1817)3月22日
焼失……嘉永7年(1854)4月6日
後桜町院が文化10年(1813)閏10月16日に崩御し、その後は空屋敷となっていました。
光格天皇は、文化11年(1814)頃より譲位の意向があり、後桜町院御所を光格院御所とするため、修復工事が行われ、文化14年(1817)2月18日に完成します。3月21日には中宮の内々の移徙があり、光格天皇は3月22日に譲位され光格院御所へ移徙されました。
また、文化11年(1814)12月11日には、旧後桜町院御所の北苑に中宮御殿を造営する命が出されています。
※中宮御殿
釿始……文化13年(1816)5月15日
立柱……文化13年(1816)7月24日
上棟……文化13年(1816)12月16日
移徙……文化14年(1817)3月21日 内々に移徙
移徙……文化14年(1817)3月22日 改めて移徙
※光格院御所
文政3年(1820) | 常御所修復 |
文政5年(1822) | 鎮守本社・鎮守北小社修復 |
文政9年(1826) | 柿本社修復 |
天保3年(1832)~天保4年(1833) | 常御所修復 |
天保6年(1835) | 柿本社修復 |
天保8年(1837) | 鎮守本社修復 |
天保10年(1839) | 鎮守北小社修復 |
光格院は、天保11年(1840)11月19日に崩御され、院御所は11月28日から旧院と呼ばれるようになりました。その後、弘化3年(1846)6月20日に新清和院も崩御されました。新清和院御所は、仁孝天皇の皇女敬宮淑子内親王が使われていますが、嘉永7年(1854)4月6日に、この御所から出火しました。
光格院御所は、寛政度の後桜町院御所の建物をそのままの規模で修復して用いています。中宮御殿は、光格院御所の北部の青綺門院御所の用地に建てられました。
※寛政度 女御々里御殿
釿始……文化14年(1817)11月8日
立柱……文化14年(1817)11月27日
上棟……文化15年(1818)2月8日
安鎮……文化15年(1818)2月26日
地鎮……文化15年(1818)3月1日
移徙……文化15年(1818)3月4日 引渡
文化14年(1817)9月21日に仁孝天皇が即位され、12月11日に鷹司繋子(新皇嘉門院)が入内しており、この時女御々殿は新造せず修復して用い、御里御殿が新造されました。文政6年(1823)4月3日に鷹司繋子(新皇嘉門院)が崩御し、文政8年(1825)8月22日に入内した鷹司祺子(新朔平門院)の御里御殿として使われることになりました。文政8年(1825)3月11日に修復され、8月3日に工事が完了しています。また、嘉永元年(1848)から同2年(1849)にかけて修復しています。
安政度
☆内裏
- 釿始
- 安政2年(1855)3月18日
- 立柱
- 安政2年(1855)4月8日
- 上棟
- 安政2年(1855)8月24日
- 安鎮
- 安政2年(1855)9月21日~27日 阿闍梨青蓮院二品天台座主尊融入道親王(久邇宮朝彦親王)
- 安鎮
- 安政2年(1855)10月17日~19日 准后御殿
- 地鎮
- 安政2年(1855)10月2日
- 地鎮
- 安政2年(1855)10月22日 准后御殿
- 移徙
- 安政2年(1855)11月23日
嘉永7年(1854)4月6日午刻、仁孝天皇の皇女敏宮淑子内親王が使われていた、内裏東南に位置する新清和院御所旧殿(大宮御所芝御殿孝順院(掌侍媋子)住居)から出火しました。東南の風のため、火は内裏建春門から温明殿に及び、内裏諸御殿を焼き尽くしました。出火の範囲は、西は千本通、南は下立売通下ル、北は今出川通、東は寺町通まで及びました。
なお、新待賢門院御所は焼失していません。
この出火により、孝明天皇は下鴨社へ、さらに聖護院へ、4月15日に桂宮御殿(仮内裏)へと移っています。
内裏炎上の報は10日に江戸に達し、幕府は翌11日に使者として高家今川駿河守範敍を上京させ、16日には内裏の作事惣奉行として老中阿部伊勢守正弘を任じ、17日には勘定奉行石河土佐守正平をはじめとする勘定方の面々に京都御用を命じています。さらに18日に高家由良信濃守貞時を使者として内裏造進のことを奉上させ、23日には上京した今川範敍が、5月2日には由良信濃守貞時が参内して天機を伺っています。
内裏造営を老中が担当するのは、寛政度の前例に倣ったものです。
- 焼残り
- 御池庭文庫三棟、御池庭南文庫二棟、遣水東文庫三棟、日御門内文庫一棟(楽器蔵)、内侍所蔵一棟(御清蔵)、呉服蔵一棟、御舂屋米蔵西方一棟、十二棟
- 焼失
- 奥女中蔵(東対屋南側)一棟、日御門行事官(修理職)預り蔵一棟、日御門御畳蔵一棟、御𦾔院修理職預り蔵一棟、御物置修理職預り一棟、御鳳輦舎一棟、御車舎一棟、内侍所蔵二棟(雑蔵・米蔵)、勘使蔵(武家玄関北側)一棟、御茶蔵(西対屋南側)一棟、御舂屋米蔵二棟、御舂屋一棟、御舂屋修理職預り物置一棟をはじめ十五棟。
嘉永7年(1854)4月24日、京大工頭中井正路は、焼失を免れた賢聖障子・年中行事障子など14枚の修復を奏しています。
先の寛政度の内裏造営には、幕府方の御用掛として作事奉行が直接担当していましたが、今回は作事奉行の御用掛任命はなく、幕府は7月19日に京都奉行の浅野中務少輔長祚に、作事奉行の代わりの心得を以て勤めるように申し渡しています。
9月に入る頃には、次第に材木に木取りなどの準備が進められていますが、幕府の貯蔵材に良材が少なくなっていて、見えない所で節のある物や柱に心持材を使わなくてはならなくなったこと、紫宸殿の大梁は寛政度にすでに檜が得られず松を用いたが、今回も同様であることなどが伺書として提出されています。その後、土取場、屋根材などについての伺いがみられ、暮近くには準備が概ね整って、11月21日に内裏の敷地が引き渡されています。翌年に入ると、打ち合せは細部に及び、これに対して寛政度の先例を調べています。
造営工事は、3月18日に釿始・地曳が行われ、4月8日に礎・立柱と進捗し、4月12日には庭の樹木などの見分け、敷地の南東及び西南の欠け込み部分が築き直されました。9月21日から7日間、安鎮法が修せられました。10月2日に地鎮、10月17日から准后御殿の安鎮法が修せられ、22日に地鎮、11月1日に所司代による検分が行われ、2日に御所側立会いによる検分をすませて3日に引渡となりました。そして11月15日に大殿祭の後、23日に孝明天皇が桂仮内裏から新造と成った内裏に移徙になり、同日内侍所も渡御されています。
10月4日には南庭に桜と橘を植えました。
- 賢聖障子
- 修繕
- 清涼殿鳥居障子
- 本文修繕、不足分書足し、絵の方は書替え。「歌新歌之事、マクリ可入り。」
- 小障子
- 猫張替え、雀修繕
- 年中行事障子
- 仮修復
- 西の馬障子
- 表裏書替え
- 寄馬障子
- 修繕
- 御涼所
- 小襖のほか各書替え
- 花御殿
- 小襖のほか各書替え
安政6年(1859)12月22日
旧院鎮守本宮、柿本社、稲荷社、北末社、東末社、新末社、山中祠(嘉永7年の火災後修理なり正遷宮)
安政2年(1855)11月以降の主な作事
安政3年(1856) | 錦台建造 |
安政3年(1856)~安政4年(1857) | 聴雪建造 |
安政4年(1857) | 物見台建造 |
安政5年(1858) | 迎春建造 |
文久2年(1862)3月25日 | 東北部拡張を幕府に奏上 |
慶応元年(1865)4月~6月 | 内侍所仮殿造営、6月渡御 |
慶応元年(1865)4月27日~11月22日 | 内侍所修復 |
慶応元年(1865)~慶応2年(1866)2月14日 | 東北部拡張 |
慶応2年(1866)8月 | 花御殿模様替え |
慶応3年(1867)4月~5月 | 清涼殿・常御殿修復 |
安政度の内裏の規模
安政2年(1855)3月10日に東南及び西南隅を拡張することが、所司代脇坂安宅から奏上されています。
寛政度の造営に当たって、南の築地を12間5尺南へ移していますが、両隅は仙洞御所及び清水谷家の敷地があって拡張できず、東南隅は西15間、東南隅南北125尺、西南隅東西10間、西南隅南北12間5尺を欠いた形になっていました。この部分を仙洞御所等の敷地を書き込んで拡張することにしています。さらに、文久2年(1862)東宮御殿を新築するために東北隅を拡張することになります。慶応2年(1866)から行われた築地の築きなおしによって、内裏及び准后御殿の築地は現在の南北226間、東西125間の規模になりました。
建物についてみると、寛政度の配置・平面をそのまま踏襲しているため、小指図では寛政度と安政度の区別がつかないものが多いです。ただし、寛政度内裏では、はじめ主要御殿の中で御学問所・御三間・御花御殿が造営されず、女御の御殿も後から造られましたが、安政度は最初からこれらの御殿も造営されています。
文久2年(1862)3月28日、内裏東北部を拡張して、東宮御殿を造営することを幕府に奏しています。実際の工事は慶応2年(1866)2月14日から行われ、築地が築きなおされています。続いて東宮御殿の造営が始められましたが、慶応2年(1866)4月12日、建春門外の小屋場から出火しました。立柱は4月24日、上棟は4月27日に行われました。
実相院は、享保6年(1721)東山院御所から中宮御殿を移して建てられています。
※寛政度との相違点
- 外回りの築地の東南及び西南の隅の欠け込みがなくなっている
- 神嘉殿の位置がやや南に寄っている
- 内侍所南にあった蔵二棟が拡張されて、東南隅に移されている
- 准后御殿と常御殿東庭に御茶屋が造られている
- 物仕部屋東南の6畳が8畳になっている
- 西対屋の西から二番目の湯殿の8畳・4畳が6畳2室に変わり、押入が増えている
- 西から三番目の局の室位置が、西から東に変わっている
建春門の彫刻
- 両妻笈形
- 菊水
- 中備笈形
- 前は獅子牡丹、後は岡松、中通は桜流れ
- 中備大蟇股
- 唐松に赤松子・岩に羊
- 唐破風之所蟇股
- 前は雲龍、後は雲に麒麟・波に犀
- 両妻紅梁下外
- 枝菊・牡丹・竹・椿
- 柱貫之間羽目内
- 波に鴛鴦
※安政度 英照皇太后御所(大宮御所)
釿始……慶応3年(1867)9月21日
立柱……慶応3年(1867)11月15日
上棟……慶応3年(1867)11月28日
移徙……明治2年(1869)2月21日 現存
孝明天皇が慶応2年(1866)閏12月25日(西暦だと1867年1月30日)に崩御し、慶応3年(1867)1月9日、睦仁親王(明治天皇)が践祚されました。
孝明天皇の女御夙子(英照皇太后)は内裏北部の准后御殿を使われていました。慶応3年(1867)7月13日に、翌年春の立太后に先立って、内裏東南の地域内に英照皇太后の大宮御所の造営が定められました。上棟は慶応3年(1867)11月28日、移徙は明治2年(1869)2月21日に行われました。大宮御所は上納金によって建てられました。
明治元年(1868)7月17日、江戸を「東京」とする詔書が出され、明治元年(1868)9月8日に「慶応」から「明治」に改元されました。
明治天皇は、明治元年(1868)9月20日に御発輦し、同年10月13日に東京に御着輦、12月8日に東京御発輦し、12月22日に京都御着輦されました。明治2年(1869)3月7日に再び京都を御発輦し、3月28日に東京御着輦され、明治2年(1869)4月5日に東京遷都が決定しました。明治2年(1869)10月13日、江戸城を東京城と改めました。
英照皇太后も明治5年(1872)3月22日に東京に行啓されます。
参考
現在の京都御所
総面積 3万3400坪(110,413.2㎡)
南北東側446m、西側450m、東西北側244.5m、南側248.5m
京の都は、延暦13年(794)10月22日、第50代桓武天皇により、奈良の平城京から京の長岡京、そして平安京へと都を移されたのが始まりです。
- 平安京
- 延暦13年(794)11月8日 命名
南北約5.3㎞、東西約4.6㎞
大内裏は南北約1.4㎞、東西約1.2㎞
内裏は南北約300m、東西約220m(100丈×73丈)、内郭南北約215m、東西約173m(72丈×58丈)
第119代光格天皇の時、天明8年(1788)、天明の大火により内裏も焼失しました。
徳川11代将軍家斉公は、老中松平越中守定信に命じ、当時蟄居中であった、有職故実の大家裏松固禅(光世)の書『大内裏図考證』を参考とし、寛政の御造営は有職故実を重んじ、平安京の古制に則って再建されました。これが寛政2年(1790)の寛政度の御造営です。
その後、嘉永7年(1854)4月6日午刻から4月7日、この御所の東南にあります大宮御所芝御殿孝順院(掌侍媋子)住居から出火し、内裏も焼失しました。
御造営は、徳川13代将軍家定公が、孝明天皇の勅命を受け、老中阿部伊勢守正弘に命じて再建されます。安政2年(1855)11月23日に再建がなり、これが安政度の御造営といわれます。
慶応元年(1865)~慶応2年(1866)2月以降、現在の形となりました。
現在は京都御所の元であった土御門東洞院(4,363坪)の約8倍です。
参考文献
- 裏松光世(固禅)『大内裏図考證』 1788年(1797年献上)
- 藤岡通夫『京都御所』新訂 中央公論美術出版 1987年