この令和4年(2022)5月1日、今上陛下が第126代の天皇として践祚されてから4年目を迎えた。コロナ禍の続く中にも、両陛下はお揃いでオンラインなどを活用しながら、国家・国民のために御精励を賜っている。この天皇を日本国・国民統合の中核とする皇室の永続と弥栄を念じてやまない。
日本と朝鮮半島の複雑な関係
一般の社会生活においても、隣近所は大事な存在であるが、その付き合いは必ずしも容易でない。まして国と国との関係は難しい。
東アジアの東端に位置する我が国の場合、日本海を挟んだ隣の韓国と北朝鮮が最も近い隣国である。しかし、この両国で戦前の半世紀近い〝日帝支配〟(台湾と同様の植民地同化政策)を殊更に非難攻撃する声が依然として根強い。このような異常事態は、お互いのために何とか克服したいものである。
ちなみに、明治後半におきた、日清戦争も日露戦争も、端的にいえば朝鮮半島をめぐる日清・日露の宿命的な対決にほかならない(内村鑑三は日清戦争当時、これを「義のための朝鮮戦争(コーリアン・ウォー)」と称している)。その歴史を振り返れば、朝鮮半島と日本の関係は、すでに千数百年前から密接であり、しかも複雑であった。
熊襲と新羅の平定にみずから遠征
前回(第3回)述べたとおり、倭建命(日本武尊)は、およそ4世紀前半、勅命を奉じて国内統一に東奔西走したと伝えられる。しかし、それで大和朝廷の全国支配が完了したわけではない。かつて神武天皇の東征以前に、九州から畿内への進出を何度も試みて、なかなか成功しなかったように、各地にいた有力豪族との攻防は、かなり長い間、続いていたとみられる。実は、九州の熊襲も東国の蝦夷らも、再び朝廷(倭王権)に叛旗を翻したのである。
そこで、第14代仲哀天皇(倭建命の皇子)は、皇后の息長帯比売命(神功皇后)と共に、みずから九州まで遠征された。この皇后は、父が近江に勢力を張る息長宿禰王(開化天皇の曾孫)、母が大和出身の葛城高額媛(天日矛の5世孫)である。しかも、神意を窺うことのできるシャーマン(巫女)のような能力を持っておられたという。
そのため、橿日宮(福岡市香椎)において、皇后が神意を占われたところ、「何ら実の無い熊襲を伐つよりも、西のほうの豊かな新羅の国を討てば、おのずと熊襲も従うに違いない」というような神託があった。これは当時、熊襲が新羅と手を結んで、九州に勢力を張っていたことを見抜き、熊襲の背後にいる新羅を先制攻略する必要性を教え示されたことになろう。しかしながら、仲哀天皇は、それに耳を傾けず、みずから熊襲を伐とうとされたところ「賊の矢に中り」、急に亡くなってしまった。
そこで、神功皇后(正確には皇太后)が再び神意を占われたところ、まず「汝命(皇后)の御腹に坐す御子」が将来天皇になられるであろうことを予言された。また続けて、今こそ神威を奉じて新羅に遠征すべきことを勧告する神託があったという。
それゆえ、その教えどおり、軍船を率いて出兵された。すると、恐れをなした新羅国王は、「吾聞く、東に神国あり、日本といふ。また聖王あり、天皇といふ。必ずその国の神兵ならん。あに兵を挙げて距ぐべけんや」と言い、「素旆」(白旗)を挙げ降伏してきたという。そこで、ほとんど戦うことなく凱旋された皇后は、筑紫の宇瀰(福岡県宇美町)において皇子(応神天皇)を無事出産することができたという。
このような新羅出兵(いわゆる三韓征伐)物語には、かなり後世の文飾が加えられているであろう。けれども、その骨子は古伝に基づいている、と考えても差し支えない。なぜなら、たとえば高句麗の「好太王」碑文にも、次のごとく刻まれている。
「倭、辛卯年(391年)に来りて海を渡り、百残(百済)□□新羅を破りて臣民と為す。……九年己亥(399年)、百残、誓に違ひ、倭と和通す。……新羅、使を遣して王(好太王)に白ひて云はく、倭人、その国境に満ち、城池を潰破し、奴客を以って民と為せり……と。……十四年甲辰(404年)、倭、不軌にして帯方(半島の中西部)の界に侵入す。……」
これによれば、4世紀末前後に倭人が何度も海を渡り、一時的にせよ百済や新羅を服属させていたことが裏付けられる。
応神天皇の「摂政」としての功績
この神功皇后は、誕生まもない皇子(応神天皇)の成長するまで、いわゆる「摂政」として天皇に代わる役割を果たされた。そのため『日本書紀』(720年成立)は、他の天皇と同様に、巻九を皇后の本紀とするような特別の扱いをしている。また、常陸や摂津の『風土記』では、「息長帯比売天皇」と称している。けれども、その立場はあくまで皇太后として内政外交を摂行されたという、動かし難い史実が伝わっていたからこそ、記紀ともに「女帝」とは書きえなかったのであろう。
その功績はいろいろ伝えられている。たとえば、すでに九州から大和への帰途、謀反を企む香坂王・忍熊王(応神天皇の異母兄)を迎え討ち、皇位を安泰ならしめられている。また、いったん帰伏した新羅が百済を圧迫している状況を知り、再び出兵して「新羅を撃ち破り」、ついで南部の加羅など「七国を平定し」、百済を積極的に支援された。そこで、百済の「王肖古及び世子貴須」は、日本に「春秋(毎年)の朝貢」を誓い、使節久氐らを遣わして「七枝刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献る」に至ったという。
これは『日本書紀』の記事であるが、幸いその裏付けとなる当時の史料が現存している。すなわち、石上神宮(天理市)に伝わる「七支刀」(国宝)である。その銘文は読み解きが難しいけれども、おおよそ「泰和四年(369年)……百錬の銕(鉄)の七支(枝)刀を造る。……百済王(肖古)の世子奇生(貴須)、聖音の故に、倭王の旨(聖旨)の為に作る。……」と釈読されている。
このような両方の史料を照合するならば、新羅の攻勢に晒されていた百済では、いわゆる倭王権(大和朝廷)が朝鮮半島へ出兵したことによって脅威を除くことができたので、それに謝意を表わすために、これらを献上してきたものと解される。
これ以降、わが国は百済と長らく友好関係を保ち、中国の儒教も仏教なども、百済を通じて日本へ伝えられた。その文化的功績は極めて大きいが、それを可能にしたのも、神功皇后の積極外交によるものだといってよいと思われる。
補注 七支刀(七枝刀)と七子鏡についての研究
石上神宮所蔵の国宝「七支刀」の銘文については多くの解読・研究が行われてきたが、近年では九州大学の濱田耕策氏が解釈を行い、「泰和四年」は中国南部の王朝・東晋の年号であり、百済王が東晋皇帝から下賜されたものを仿製(模作)し、銘文を加えて応神天皇に贈ったとしている。
また、『日本書紀』が「七枝刀」とともに贈られたとする「七子鏡」については樋口隆康氏の研究がある。樋口氏はそれを百済武寧王陵や滋賀県・三上山下古墳出土の、七つの乳を配し、その間に神獣を刻む獣帯鏡と呼ばれるものに類したかたちではないかとし、滅亡した楽浪郡を介して漢文化が流入した百済において製作された可能性を指摘している。(久禮旦雄)
参考文献
- 所功「神功皇后紀「七枝刀」と国宝「七支刀」(『歴史研究』令和2年11月号→『所功 未刊論考デジタル集成 第1巻 古代ヤマト国家形成史』収録)
- 濱田耕策「4世紀の日朝関係」『日韓歴史共同研究委員会 第1期 報告書』(平成17年→平成23年Web公開)
- 樋口隆康「武寧王陵出土鏡と七子鏡」『史林』55巻4号(昭和47年)