『日本書紀』から美濃古代史の謎を解く(2)記紀と木簡の美濃国

三 記紀にみえるミノとヒダ

この『古事記』や『日本書紀』に、ミノとヒダのことが、どれほど、どのように出てくるか調べてみますと、ヒダのことは少ないのですが、ミノのことは多く出てきます。

なお、『日本書紀』には本来、本文と別に系図もあったようですが現存しません。しかし、本文の中に、代々の天皇や后妃などのお名前や陵墓などがしっかり書いてあります。

それを見ますと、第九代開化天皇と和珥姥津媛わにのははつひめの間に日子坐王ひこいますのみこが生まれ、その子が神大根王かむおおねのみこです。この二方は岐阜の伊奈波神社・金神社に祀られており、その神大根王の娘には兄比媛えひめ弟比媛おとひめがいます。

また、第十代崇神天皇と尾張大海媛おわりのおおあまひめの間に八坂入彦命やさかいりびこのみことが生まれ、その娘に八坂入媛やさかのいりびめがいます。ついで、第十一代の垂仁天皇と日葉酢媛ひばすひめとの間に生まれた皇子が第十二代の景行天皇となります。その景行天皇と八坂入媛の間に生まれたのが第十三代の成務天皇です。このように美濃と関係の深い方が天皇にまでなっておられます。

さらに景行天皇の皇子である日本武尊やまとたけるのみことの兄大碓皇子おおうすのみこは、大和から美濃に来られ、神大根王の娘である弟比媛と結ばれ、その子孫が美濃で有力な牟宜都国造むげつのくにのみやつこの祖だと伝えられています。

このように景行天皇の御代に美濃との関わりが深くなったのは、4世紀の前半くらいです。大和朝廷は第十代の崇神天皇朝(3世紀前半)から第十二代の景行天皇朝(4世紀後半)ころ国内を統一しますが、それに美濃が深くかかわっていたのだと思われます。

ご承知の通り、日本武尊の話は美濃にも尾張にも伊勢にも広く関わっています。これは大和朝廷の国内統一過程における壮大な英雄物語です。

そのころ兄の大碓皇子が美濃で弟比媛と結ばれて牟宜都国造の祖である押黒弟日子王おしぐろのおとひこのみこをもうけられたという伝承も、大和朝廷と美濃との関わりを示すものです。それゆえ、やがて7世紀後半の壬申の乱にも大きな関わりをもつことになったわけです。一方、ヒダについては、『古事記』にも『日本書紀』にもあまり出てきません。エリアが奥地の山間にある小国ですから、お米などがほとんどとれなかったからかもしれません。

しかし、大宝・養老令に「およそ斐陀国は、庸(米・布)も調(絹・麻・銭など)も俱に免ぜよ。里毎に匠丁たくみのよぼろ十人を点じ(選び)、一年ごとに替へよ。」と定められています。ヒダというところは、昔から優れた匠がいるので、庸や調のような税の代わりとして、匠丁を毎年十人交替で都へ出すことになっていたのです。そのおかげで、古代からヒダは、朝廷にとっても重要な匠の文化レベルを高め広める要地になってきたのだと思われます。

「日本武尊」 渡部審也 筆

四 大嘗祭米と立春水の献納

最後に申し上げたいことは、岐阜県が今でも美しい山も川もあり、豊かな水があっておいしい物ができることの重要性です。

美濃の米については、飛鳥・奈良時代の木簡にみえます。『古事記』・『日本書紀』は紙に書かれた編纂書ですが、それよりリアルな出土品が木簡です。その多くは荷札みたいなものですが、いろいろな貢納物の荷札が紙でなく木片に書かれています。ここ50年ほどの間にたくさん出てきました。

そのうち「飛鳥池遺跡北地区出土木簡」をみますと、たとえば、一枚の表に「丁丑(天武天皇6年・677)十二月 三野国刀支評(土岐郡)粢(次米)」、裏に「恵那五十戸造(里長)阿利麻春人服部枚布五斗俵」と記されています。

初めに丁丑ていちゅうとあるのは、当時まだ年号が定着していませんでしたから、干支で示されています。677年のものです。その年に美濃の刀支=土岐から「次米」を出していたことが分かります。また、同じ年の「丁丑年十二月次米 三野国加尓評(可児郡)久々利 五十戸人物部古麻呂」という木簡もあります。

念のため、大宝令(701年)以前は、郡にあたるエリアを「評」と称していました。この木簡にはそれが正確に記されていること自体貴重ですが、これによって後の土岐郡や可児郡から「粢(次米)」を出したことがわかります。

この「粢」(次米)というのは、奈良文化財研究所作成のデータベース「木簡庫」解説によれば、「次」と「米」の合成字「粢」は「しとぎ」と訓み、「餅の意」があり、「十二月に糯(餅)米を貢進する例」もあるから「糯米の可能性が高い」(吉川真司氏)といわれています。

奈良文化財研究所 木簡庫

また、毎年の収穫感謝祭を新嘗祭と言います。大嘗祭と新嘗祭は、規模も祭場なども異なりますけれども、趣旨はほぼおおむね同じです。しかも、飛鳥時代(7世紀)には、毎年の新嘗祭も大嘗祭と称され、ユキ米とスキ米を地方から貢納することになっていました。それが木簡によって、丁丑の677年には美濃の土岐と可児から「スキ米」を出したことがわかるのです。

また、「藤原宮跡大極殿北方出土木簡」をみますと、「癸未年(天武天皇11年、883)十一月、三野国大野評阿漏里/阿漏人白米五斗」とあります。さらに、飛鳥寺北西の石神遺跡出土の木簡にも「□□年十一月 三野国不破郡日信□□□支位手舂白米」と書かれています。この「白米」も「舂白米」も11月の貢進であり、天武天皇朝のころには、毎年の新嘗祭にも代始の大嘗祭にも特定の悠紀(ユキ)国と次=主基(スキ)国から出されていましたから、これは「スキ」米と理解することができます。とすれば、天武天皇のころには、美濃から毎年のようにスキ米が送られてきたことになります。

さらに文武天皇2(698)年の大嘗祭には、尾張と美濃が選ばれて、ユキ米・スキ米を貢納したので、百姓たちにご褒美の物を賜ったことが『続日本紀』に出ております。

その後、奈良時代後半の孝謙女帝と称徳女帝の御代、大嘗祭に際して、天平勝宝元(749)年11月「因幡を以由機ゆき国と為し、美濃国を以て須岐すき国と為す」とか、天平神護元(765)年11月「大嘗の事を行ふ。美濃国を以て由機と為し、越前国を以て須岐と為す」と『続日本紀』に記されています。

このように天武天皇朝から奈良時代にかけての大嘗祭に、美濃のお米は大変重要視されたことがよくわかります。

日本では、弥生時代から米を作るようになりました。この米を作るには大変な手間をかけなければなりません。私も大学を卒業するまで揖斐の実家で母のお米作りを手伝いました。種まき、田起こし、田植え、草取り、稲刈り、脱穀など、大変な作業が続きます。しかし、それを丹念にやり続ければ収穫がよくなり、よい米もできるのです。おそらく21世紀の世界的な食糧危機も、お米を作れば救うことができるかもしれません。

もう一つ申し上げたいのは、水の良さです。美濃というところは、水が大変おいしく豊富です。特に養老の湧き水は、奈良時代に都へ知られて、元正女帝がわざわざ養老まで来られ、湧水により若返られたので年号も「養老」と改められました。先般、養老町で「養老改元1300年」のお祝いをされたのは、まことに結構なことです。

また、『続日本紀』には、その養老元(717)年12月丁亥条に「美濃国をして立春の暁、醴泉を把(汲)みて京都みやこに貢ぎ醴酒と為すなり」と記されています。つまり立春の頃、美濃のきれいな水を都へ持って行き、おいしい酒を造ったと書かれているのです。

しかも平安時代の『延喜式』には「御生気の御井神一座の祭……立春日の昧旦(夜明け前)に至り、牟義都首むげつのおびと、水を汲み、司に付して供奉に擬せよ」とあります。つまり、毎年立春には美濃の牟義都首が水を汲みお供えをする慣例が宮廷の年中行事になっていたのです。この儀式はやがてなくなりますが、こういうことが古くから行われていたことは美濃の誇りといってよいと思います。

きれいな水があり、おいしいお米がとれるということは、美濃の大きな強みです。もちろん、近代的な産業も大事ですが、人間の基本として自然の中で営む農業の大切さを忘れてはなりません。

好華堂野亭 參考 ほか『扶桑皇統記圖繪』, 誾花堂,1887.
国立国会図書館デジタルコレクション

五 文化と文明の両立

一般に、「文化と文明」という二つの言葉をよく使いますが、両者は意味が本来かなり違います。「文化」も「文明」も近代的な翻訳語ですが、語源を異にしています。

一方の「文化」をcultureというのは、ラテン語のcolureに由来します。それは土地を耕して食物を作ることが、他の動物にできない人間にのみ可能な営みだからです。

もう一方の「文明」を英語でcivilizationというのは、city(都市)とかcitizen(市民)にもみられるような、いつでもどこでも通用するもの(制度や機械など)を指します。大まかにいえば、文化は地域的で個性的なものですが、文明は地球的で普遍的なものです。

そのため、明治以降「文明開化」をスローガンに掲げた日本では、ローカルな文化を捨ててグローバルな文明を取り入れることが進歩だ、と錯覚されがちでした。

しかしながら、文化と文明は、人の両足、車の両輪のようなものですから、両方とも不可欠なのです。むしろ文明の過剰な現代では、文化の価値を見直して活用する必要があります。

本日は1300年前に出来た『日本書紀』を通して、主に美濃古代史に関する話を申し上げてきました。わがふるさと岐阜県には、美濃にも飛騨にも実に豊かな自然があり、その土地らしい文化が残っております。その在り方をしっかり伝承し、大切にしてほしいと思います。

その文化は、単なる物ではなく、むしろ心です。今ここに自分が在りうるのは、自然と祖先のおかげによるところが大きいのです。

近ごろNHKで「ファミリーヒストリー」という番組をやっています。あのファミリーヒストリーに出た人は、先祖のことをほとんど知らなかったが、先祖がいてこそ今の自分があることを実感しているようです。

その伝承の一つが地名です。地名には歴史が秘められています。市町村合併によってどんどん古い地名がわからなくなっていますが、その地名の中に古い伝承が残っています。どうか当会の皆様も、古い文化を伝える地名の由来を大切にしてほしいと思います。

【付記】
なお、ミノという漢字表記はいろいろあるようですが、その由来について、お話しします。
地名の「ミノ」は、和銅5年撰上の『古事記』と養老4年撰上の『日本書紀』を対比すると、表記が少し異なります。たとえば、景行天皇朝の記事ですが、『記』に「三野国造、神大根王かむおおねのみこ」と記すのを、『紀』には「美濃国造、名は神骨かむほね」と書いています。

これは一見『続日本紀』和銅6年(713)5月2日条の「畿内七道諸国郡郷名に好字を着けよ」という制の適用により「三野」を「美濃」に改めたからだと考えられそうです。ただ、この前年撰上された『記』の神代巻には「美濃国」の表記もみえますので、「美濃」と改めたのはもう少し前(元年ころか)と推定されます。

しかも、それは単に「三野」から「美濃」への改称ではなく、その間に「御野」という表記のあったことが、当時の史料によって判かります。

たとえば、東大寺で律令政府から払い下げられた、大宝2年(702)戸籍の裏に写経した文書が正倉院に伝残しており、その中に「御野国加毛郡半布里」「御野国山方郡三井田里」「御野国本簀郡栗栖太里」「御野国肩縣郡肩々里」「御野国味蜂間郡春部里」の戸籍があり、いずれも「御野国」と書かれています。また、藤原京(684~710)跡出土の木簡にも「大宝三年十一月十二日御野国楡皮にれかわ十斤」と記されています。

ところが、大宝以前の天武天皇朝には「三野国」と表記されていたことは、飛鳥木簡により確実です。この「三野」として、『先代旧事本紀』の「国造本紀」は「三野前国造」「三野後国造」「額田国造」をあげています。従って、古くは大まかに三つの野から成る地域が、天武天皇朝ころまで「三野」と呼ばれ、次いで壬申の乱後の持統・文武天皇朝(686~707)に「御野」と称され、さらに元明天皇から好字を選んで「美濃」に改められたのではないかとみられます。(完)

※本稿は令和2年(2020)12月1日に開催された岐阜県文化財保護協会第5回文化財講演会での所功の講演、馬渕旻修氏など記録です。それが『濃尾の文化財』60号(令和3年2月22日)に掲載され、それに少し追記・修正を加えました。記録の作成に御尽力いただいた関係者に感謝します。