はじめに―要旨―
本日のテーマは「『日本書紀』から美濃古代史の謎を解く」としてあります。日本で最初の正史として伝わる『日本書紀』が成立したのは、西暦720年、今から1300年ほど前にあたります。
8世紀初め、それまでの出来事をまとめて、立派な歴史書ができたのです。その8年前の712年には『古事記』ができております。この『古事記』と『日本書紀』によって日本国の成り立ち、皇室の在り方などを知ることができます。
その中に、わが美濃と飛騨はどのように書かれているか、どのように扱われているかということを、この機会にテーマとさせていただきました。
大まかなことをあらかじめ申し上げます。まず『日本書紀』・『古事記』の研究に多大な貢献をされた東濃出身の津田左右吉博士について取り上げます。ついで、『古事記』をまとめ上げた太安万侶は、『日本書紀』の編集にも携わっていますが、この安万侶のお父さんは、多品治とされています。彼が、美濃の西濃地方にいて、「壬申の乱」で活躍したことについて申し上げます。
さらに、『古事記』や『日本書紀』を見ますと、美濃も飛騨も非常に古くから皇室との関係が深い。皇族方で美濃の女性と一緒になられ、その間に生まれたお子達が美濃の有力者になっており、古代国家の成立過程に美濃が大きくかかわっていることを申し上げます。
最後に美濃は、古代からよいお米がとれ、おいしい水もあって、朝廷で重んじられたことについて申し上げます。
岐阜県、特に美濃の伝承や歴史を見ますと、多彩な歴史を持っており、それが現在の人たちにも理解され、将来にも受け継がれることの大切さについて申し上げたいと思います。
一 記紀研究の変化
津田左右吉博士は、明治6(1873)年、今の美濃加茂市に生まれ、昭和36(1961)年に88歳で亡くなられました。世の中には、津田さんは、『古事記』も『日本書紀』も価値がないものだと否定したような錯覚が少なくありません。
しかし、決してそうではないことは、津田先生の長年にわたる研究成果をよく読めば分かります。記紀には中国古典などによる文飾が多々みられます。しかし、それも含めて、日本人が古代国家の成立などについてどのように考えてきたのか知ることができると論じてこられました。それは大正2(1913)年に出された『神代史の新しい研究』でも、6年後、46歳のときに出された『古事記及び日本書紀の新研究』でも、本質的に一貫しています。
それにもかかわらず、敗戦後の学界・論壇では、『古事記』・『日本書紀』を否定するようなイデオロギーが強くなり、津田先生を都合よく利用しようとしたのです。ところが、津田博士は、戦後創刊された雑誌『世界』から頼まれ、編集部の意図と全く異なる「建国の事情と万世一系の思想」という題の論文を、昭和21年4月号に出されました。日本の建国はきわめて古く、日本の皇室は万世一系であるといえる理由を堂々と書かれたのです。それで編集長が困り果て、津田先生の見解と編集部の意見が違うという長文の弁明を同時に載せています。
それから半世紀以上経った近年では、たとえば早稲田大学の新川登亀男教授と岐阜大学の早川万年教授が『史料としての『日本書紀』―津田左右吉を読み直す』という論文集を出しています。そこにいろいろ取り上げられておりますが、私が一番注目しているのは、この「建国の事情と万世一系の思想」です。
その結論を要約しますと、以下のようになります。
津田氏は、ほぼ1・2世紀のころから近畿地域に、九州地方の文物を受け入れた「文化の一つの中心が形づくられ」、「その(近畿)地方を領有する政治勢力」は、「皇室の祖先を君主とするもので」あり、それが2世紀から3世紀にかけて本州の大部分を勢力範囲としていたとされました。しかし近畿ヤマト朝廷が、北九州を統御するヤマト(邪馬台国一帯)を服属させたのは「四世紀の前半」であり、続いて「四世紀後半」には、ヤマト朝廷が朝鮮半島まで進出するほどの勢力を持ち強めたから「日本民族の統一」基盤を固めえた、と見ておられたことが分かります。
日本の建国について、津田氏自身は「仲哀以前」から存在した「ヤマト朝廷」により日本民族が「一つの国家」として統一される過程を、1・2世紀から3世紀を経て4世紀後半まで続く一連の歩みとみていたのです。
ご存知のとおり、戦後しばらく流行りました「王朝交替説」や「継体天皇以前否定説」などは、近年ほとんど消えてしまいましたが、津田先生はすでに敗戦直後から、日本の建国は2・3世紀ごろから始まり、4世紀ごろヤマト朝廷によって統一されたとみておられたことを確認しておきます。このことが段々学界でも共有されるにつれ、かつてのように極端な意見を述べる人は少なくなりました。
ただ、古代史マニアなどの一部には、中国や朝鮮の史料を過信し、記紀を軽視する傾向が今なお見られます。中国や朝鮮の史料はもちろん大切ですが、やはり1300年ほど前に出来ていた『古事記』や『日本書紀』をよく理解して、総合的な研究に努めたいと存じます。

国立国会図書館デジタルコレクション
二 記紀編者の太(多)安万侶
ついで、『古事記』を見事に仕上げ、『日本書紀』の編纂にも加わったのは、太(多)安万侶です。彼は美濃で生まれ育った可能性が少なくありません。彼の父は多品治と伝えられていますが、この人は西濃地域にいて、天武天皇元(672)年の「壬申の乱」で大活躍しています。
『日本書紀』には「安八磨郡の湯沐令(=皇太子直轄地管理役)多臣品治に告げ、機要を宣旨して、先ず当郡の兵を発せしむ」とあります。また、次の持統女帝10(696)年8月に「直広壱(中上位)を以て多臣品治に授け、併せて物を賜ふ。元(壬申の乱初)より従ふ功と、堅く関を守る事を褒めたまふ」と記されています。つまり、壬申の乱の最初から兵を出して、不破の関などを守った功績により格別なお褒めにあずかったのです。
この多品治の子供と伝えられる太安万侶についても、戦後の学界で、『古事記』の序文が後世の偽作だとか、太安万侶はいなかったとか、かなりの学者も言っていました。しかし、昭和57(1982)年に奈良市郊外で茶畑の下から太安万侶の墓誌(履歴書)が偶然発掘されました。その墓誌銘によって太安万侶という人物の実在したことが確認され、もはやその存在を疑う人はいません。
その位は従四位です。律令制では、一位から三位までを上級貴族、四位・五位を中下級貴族に分けていますが、六国史の方針により、伝記を載せるのは原則として三位以上に限られています。そのために四位クラスの太安万侶は、『古事記』をまとめたことは序文によりわかりますが、『日本書紀』にも『続日本紀』にも出ておりません。
しかし、それから100年ほど後の子孫で、多人長という平安初期の学者が、嵯峨天皇の弘仁3(812)年から翌年に朝廷で行われた「日本紀講書」において講師を務め、その講義録「弘仁私記」の序文を残しています。
その中に「日本書紀は……一品舎人親王〔浄御原(天武)天皇の第五皇子なり〕、従四位下勲五等多朝臣安万侶〔王子神八井耳命の後なり〕等、勅を奉りて撰ぶ所なり」とあります。
すなわち、太安万侶は『日本書紀』の選者に選ばれたことを明示しており、これは間違いないことだとみられています。太安万侶は『古事記』だけでなく『日本書紀』の編纂者としても関与していたのです。そのためか、壬申の乱に活躍した父品治や美濃のことがよく出てくるのではないかと思われます。(続く)

※本稿は令和2年(2020)12月1日に開催された岐阜県文化財保護協会第5回文化財講演会での所功の講演、馬渕旻修氏など記録です。それが『濃尾の文化財』60号(令和3年2月22日)に掲載され、それに少し追記・修正を加えました。記録の作成に御尽力いただいた関係者に感謝します。