はじめに
今から約10年前の平成27年(2015)10月15日、上賀茂神社で夜分に「式年遷御の儀」があり、翌16日の午前には「勅使奉幣の儀」が行われた。
上賀茂神社(賀茂別雷神社)は下鴨神社(賀茂御祖神社)と共に賀茂大社と称され、毎年5月(旧暦4月)の例祭=葵祭にも、21年ごとの式年遷宮祭にも、天皇から勅使を遣わされ祭文と幣物を奉られる「勅祭社」の筆頭格である。
しかし、式年(一定の年数)遷宮(新宮殿への遷御)といっても、伊勢神宮のごとく、満20年ごとに宮殿を全て新しく建て替えることは極めて難しい。当社の場合、創建以来、本殿の東隣に同形の権殿が設けられており、20年以上経つと御神霊を本殿から権殿に移し、修理を加えて新しくなる本殿へ御神霊を権殿から遷し奉る“修理遷宮”が繰り返されてきた。
その修理遷宮すら大変な人手と費用を要するため、当社では平安中期以来「二十一年」を式年と定められながら、実際は朝廷や幕府の費用で数十年ごとに行うのが精一杯であった。しかし戦後、国営の官幣大社から民営の宗教法人とされたにも拘らず、崇敬者達の奉賛により昭和48年(1973)の第40回から21年後の平成6年(1994)を経て、平成27年(2015)第42回の正遷宮が、名実ともに式年遷宮として斎行されるに至ったことは、まことにありがたい。
しかもその際、15日(旧暦9月4日)夜の遷御の儀が、田中宮司の英断により何とインターネット中継されることになったので、その解説を担当してほしい、との依頼を受けたのは9月中旬である。そこで、早速「平成プロジェクト」の岡本氏や博報堂の林氏などと連絡をとりあい、また神社側の意向を乾氏に確認しながら、準備に万全を期した。その過程で作られたラフなシナリオに書き加えた私の備忘メモに追記・修正を加えたのが、このコラム「上賀茂神社の祭祀と遷宮」である。
なお、15日夕方、上賀茂神社(奈良社脇)の中継現場へ行ってみると、遷御の儀の簡単な式次第のみで、時刻の進み具合が判らないという。そこで、司会の渡辺真理さんと大まかな打ち合わせをして、お互い阿吽の呼吸で臨機応変にやるほかないと肚を決め、7時半から10時半までの本番に挑んだ。
その間、ゲストの女優とよた真帆さんもスタッフ全員も一緒に留意したことは、これが決して興味半分のショーではなく、厳粛に執り行われる神秘な祭儀であるから、境内の招待された参列者と同様、心静かに参拝させて頂くという心持ちで中継し、その雰囲気を視聴者の皆さんに伝えることであった。
それが結果的にどの程度できたかは判らない。ただ、中継の終わり近くに特別参拝をすませた宮本亜門氏(奉納劇「降臨」の脚本演出家)が浄闇の中で奉拝した深い感動をストレートに語って下さり、また同じく特別参拝して来られた横山敬一氏(中継スポンサーAGF社長)から関係者一同に「大成功です」と賛辞が寄せられて安堵した。
翌16日(金)は、午前中に勅使奉幣の儀があり、神域内の細殿前で奉拝させて頂いた。秋冷えの昨夜と異なり、夏のような日射しが強くなって急にテントも用意された。その間、私は京都産業大学総合生命科学部長(当時)の永田和宏教授と隣あわせ、歌人(宮中歌会始・朝日歌壇などの選者)としての先生から、楽しい御話を聴くことができたのも、ご神縁の賜物と感謝している。
なお、遷御の儀インターネット中継は、1時間程に編集して、10月30日にKBSテレビから放映された。次の第60回となる遷宮は令和18年(2036)が予定されている。
(所功「賀茂別雷神社の式年遷宮ネット中継」『日本学ひろば88話』コミュニケ出版より抜粋・追記修正)。

一. カミの語義とカモ神話
大和言葉でカミ(KAMI)とカモ(KAMO)クモ(KUMO)クマ(KUMA)というのは、同じ語源の言葉が母音変化したもの。古来、カミ(神)はクマ(隈)で、奥まった所におわしますものと考えられてきました。このあたりをカモ(賀茂)というのも、淀川上流の奥まったカミ(神)のおわします所だからです。つまりカモはカミの聖地に他なりません。
カモ(賀茂)の神様については、今から1300年程前(奈良時代初期)の『風土記』などに伝説が書かれています。それによれば、上賀茂の神様は特別な威力を持つ雷(別雷)の神であり、また下鴨の神様は、その別雷の御祖神(親の神)です。別雷神はこの地域に雨水と豊作をもたらす自然神であり、また御祖神は別雷神を当地に祀ったカモ(賀茂)氏の祖先神とみられます。賀茂社の神様は中世以降、落雷の多い関東に数多く勧請されており、そこからも別雷神は一般の雷神をも支配するほどの特別な威力を持つ神様として、信仰されていたことがわかります。
古代日本人のカミ(神)信仰は、人々に脅威と恩恵をもたらす自然と祖先に対して、畏れ敬い感謝することが根本にあります。その自然信仰と祖先信仰の両方が、カモ(賀茂)の神に最も良く表されています。
二. 葵祭
葵祭という名称は、葵(三葉葵)を家紋とした徳川氏の影響もあって、江戸時代に普及しましたが、すでに1300年以上前から毎年旧暦4月(現在の5月)に行われていた賀茂祭には、必ず葵(二葉葵)と桂が飾られてきました。
葵は歴史的仮名遣いで「あふひ」と書きますが、これを平安時代以来「ヒに会う」と解してきました。ヒは日(サン)でもあり火(ファイヤー)でもあり霊(スピリット)=人でもあります。そこで、ヒに会えば大きな力(パワー・エネルギー)がいただけると考え、その具象として葵を大切にしたのだと思われます(葵は陰で女性、桂は陽で男性。その組み合わせで生命の繁栄を表すとも言われています)。
この賀茂祭は、初め(ほぼ6~7世紀)カモ(賀茂)地域におけるカモ(賀茂)氏のための「氏祭」でした。その神威(神徳)が知れ渡り、奈良時代(ほぼ8世紀)には山背(山城)国一帯の「国祭」として賑わうようになりました。さらに平安時代(ほぼ9~12世紀)を迎えると、平安の宮都を中心とする日本国の守護神として、天皇が勅使を遣わして御祭文と御幣物を奉られる(さらに皇女を斎王としてカモの祭に仕えしめられる)「勅祭」になったのです。
しかも、今なお勅祭として続く葵祭には、古い氏祭・国祭としての要素が残っており、本質的には日本古来の自然神・祖先神が毎年神威を更新される祭となっています。それゆえに、京都の三大祭といっても、平安中期から盛んになる都会的な祇園祭、また明治中期に始まった近代的な時代祭とは異なる、古風な品格の高い祭として特別な地位を保っています。
三. 式年遷宮・正遷宮
式年とは一定の年数であり、遷宮とは宮を遷す(宮殿をうつし替える)こと。厳密に言えば伊勢神宮のごとく20年ごとに、宮(御屋=社殿)も御神宝なども造り変え、新宮へ神遷しをすることです。臨時の仮遷宮に対し、正式な正遷宮とも言います。しかし、おおよその年数(数十年以内)ごとに、宮(本殿)を修理して神遷しをするときも、今では式年遷宮と言われています。
上賀茂神社では、長らく不定期に修理遷宮が繰り返されてきました。平安中期の後一条天皇が長元9年(1036)に21年ごとの式年遷宮を定められたと伝えられていますが、それは容易に実施できませんでした。ただ、最近、京都精華大学講師の小出祐子氏が、上賀茂神社の古文書を詳しく調べて明らかにした研究報告によれば、江戸時代を通じて上賀茂神社では、21年ごとの定期的な修理遷宮を希望して朝廷と幕府に申請したものの、経費を出す幕府が容易に許可せず、結果的に延びて30年前後となったようです。
また、幕末の文久3年(1863)には、孝明天皇から21年目ごとの遷宮を仰せ出されましたが、明治時代には一度も行われず、約50年ぶりに大正3年(1914)第38回の修理遷宮が行われました。次いで昭和12年(1937)、さらに同48年(1973)と少し間が開いています。前回の平成6年(1994)は満21年で行われ、同じく今回の平成27年(2015)も正に満21年で修理遷宮が行われるので、文字通り式年遷宮と称してよいと思われます。
四. 本殿と権殿
上賀茂神社の別雷神は、奈良時代初期の『風土記』によれば、賀茂川から流れてきた矢を拾って身ごもられた玉依姫の子として生まれたと伝えられています。しかも、その父君にあたる丹塗りの矢が、火雷神と言われる雷神で、近くの小高い神山の頂上に降臨されたのだと信じられています。
それゆえ、古くは神山の大きな岩(岩座)で祀られていましたが、やがて麓にある現在地のあたりから神山を遙拝(遠くからおがむこと)する形に変わったものと考えられます。社殿が建て替えられたことの確かな記録は、天武天皇の678年が初見です。ただそれは、いわゆる本殿のない遙拝殿であったと思われます。しかし、奈良時代には、別雷神を常時お祀りする本殿と、その修理に際して神様を臨時に祀る権殿とを、左右に並べた現在のような社殿の形が出来上がったものと考えられます。
本殿と権殿は全く同じ構造になっており、江戸時代に上賀茂神社の関係者によって描かれた図面を見ると、中央に神様のおわします神座と、その周りを囲む御帳台があり、入口の御扉に近い所に大きな御物棚(神饌を並べる棚段)があります。この御扉は当社の主要な祭のときに開かれて神饌が供えられます。
このように、本殿と権殿を並べて造り、本殿の修理中も権殿で神様を同じようにお祀りできるようにしてあるところは、他にほとんど現存しません。どんなときも神様を正式に敬い祈ることができる社殿を1200~1300年も前から造られているのは、素晴らしい英知の表れだと思います。
五. 国宝と重要文化財
上賀茂神社は、貴重な文化財の宝庫です。とくに本社の正殿と権殿は、幕末(1863年)に古式どおり建て直されたもので、国宝に指定されています。また他の建造物(祝詞舎・神宝庫・直会所・楽所・幣殿・忌子殿・唐門・楼門・拝殿=細殿・舞殿・橋殿・土屋=着到殿・外幣殿・北神饌所=庁屋、新宮社=貴船社・片岡社など、大部分が江戸初期1628年ころの建造)32件、および「賀茂祢宜神社系図」「賀茂別雷神社古文書」(1万3639通一括)などが国の重要文化財、さらに神社の境内全体が国指定史跡でありユネスコ世界文化遺産に登録されています。
これらの建造物は、ほとんど桧皮で屋根を葺く桧皮葺です。美しい桧の皮は、大変に入手困難ですが、当社では前回の式年遷宮の機会に155トンも確保し、遷宮前に41棟、遷宮後に29棟の葺替が行われます(総費用約12億円強)。
