賀茂の葵祭と臨時祭の盛衰と復興に学ぶ

江戸時代から「葵祭」とも称される賀茂祭は、平安王朝の昔から京(宮のある処)の「まつり」を代表する勅祭として名高い(拙著『京都の三大祭』角川ソフィア文庫)。それは、長らく旧暦の4月の中酉日、明治から今日まで新暦の5月15日を中心に行われている。

それには多様な人材と多彩な装束類および多大な費用を必要とする。たとえば、鴨脚家文書所引「延喜儀式」逸文によれば、平安宮から立つ勅使列と斎院司から出る斎王列を合わせると858名にものぼる(拙著『平安朝儀式書成立史の研究』〈国書刊行会〉に全文翻刻)。

そのため、朝廷の政治経済力が衰えると、すでに承久の変(1221年)で斎院が廃絶し、やがて応仁の乱(1467~77年)以降、路頭の行列は中断のやむなきに至った(社頭の祭儀は細々とでも続いている)。それが、江戸時代に入って、幕府の統治が安定し、朝幕関係も徐々に好転するなかで、霊元天皇(在位1663~87年)を中心とする朝儀復興の熱意が実り始めた。そのひとつは、約200年ぶりに貞享4年(1687)再興された東山天皇の大嘗祭である。

葵祭に関しては、上下両社の祠官が賀茂伝奏と武家伝奏から京都所司代を通じて幕府に働きかけ、元禄7年(1694)、約200年ぶりに再興された。それには江戸幕府(将軍綱吉)から下行米790石(後1360石)が支給されている。

この賀茂祭=葵祭は、欽明天皇朝(6世紀中ごろ)に始まったと伝えられるが、平安前期(9世紀)から勅祭となり、しかもそれとは別に「賀茂臨時祭」が加えられた。そのいきさつは、宇多天皇(在位887~97年)の御記逸文(鴨脚家文書所引)に詳しい。

それによれば、「朕、微下の時(定省王の時期)」に「鴨明神」から「他の神明は皆一年に二度の祭を得るに、我只一度(四月)のみ。(なんじ)秋時もまさに幣帛を奉るべし」との「託宣」を受けたが、「身賤くて任にたへず」と答えたところ、やがて必ず「まさにこの事に任ずべきの日有るべし」との再託宣があった。

その後、高齢で擁立された父君(光孝天皇)が在位3年半で亡くなり、急に21歳で即位することになった宇多天皇は、これを「(鴨)明神の託宣の徴験」と思い至られた。

そこで、即位3年後の寛平元年(889)11月己酉(21日)、勅使の藤原時平が「走馬並びに舞人等」を伴って鴨社に向い、社頭では「幣を捧げ」ている。これが「賀茂臨時祭」の初例である。次代の醍醐天皇朝から「恒例に臨時の使を奉る」(外記日記)ようになっても「臨時祭」と称し続けられた。

宇多天皇 周易抄 (帝国学士院 編纂『宸翰英華』乾,紀元二千六百年奉祝会,1944.12.
国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2026-03-20))

この臨時祭には、斎王の参向も事前の御禊もない。しかし、11月下酉の当日、宮中の勅使発遣の儀、社頭の祭儀、夜半の宮中「還立」の儀など、4月の賀茂祭と変わりない(道中の行列は小規模)。そのため、徐々に励行が難しくなり、応仁の乱後に中断を余儀なくされ、元禄7年にも復興できなかった。

それを何とか再興しようと発願して実現されたのが閑院宮家出身の光格天皇(在位1779~1817年)である。即位23年目の寛政13年=享和元年(1801)ころの「宸筆御沙汰書」(京都御所東山御文庫御物、拙著『光格天皇関係絵図集御成』〈国書刊行会〉に全文収録)に、次のごとく仰せられている(原漢文を書き改めた)。

「石清水八幡宮・賀茂皇太神宮は、吾が邦無比の宗廟、累代朝家の崇敬、他に異なる者なり。往年、恒例及び臨時の祭祀あり。而るに中絶の後、恒例祭は両社同じく再興され・・・臨時祭は・・・再興なきの条、その恐れ実に少からざる者なり。・・・斯の如き懇篤志願の意旨、執柄(摂関)は勿論、両伝(2名の武家伝奏)等、深く思惟を加へ篤く勘弁を凝し、厚く(京都)所司代に談じ、成就を以て専要の事と為すべし。」

この御沙汰書を承った関白鷹司政煕や武家伝奏が京都所司代に働きかけを続けた結果、文化14年(1814)の11月己酉、約350年ぶりに再興された(石清水臨時祭は前年再興)。しかも、その全容を伝える『賀茂臨時祭絵巻』と別冊記録が現存する(京都産業大学図書館所蔵)。

京都産業大学図書館 賀茂絵画資料デジタルギャラリー「賀茂臨時祭絵巻」

光格天皇関係絵図集成(国書刊行会より)

ただ、せっかく復興されてから50余年後の明治3年(1870)、臨時祭は廃絶されるに至った。以来150年経た今日、再び復興することは不可能に近いであろう。けれども、光格天皇の御沙汰に明記されていた石清水と賀茂の両社に対する格別な「崇敬」は、今後とも末永く大事にして参りたい。

※本稿は令和2年(2020)に下鴨神社から刊行されたA4判カラーパンフレット『葵祭』に掲載されたものを一部改訂しました。