十二単について

十二単について

いわゆる十二単は、近世からの呼び名であり、正式には、「()(から)(ぎぬ)」「(から)(ぎぬ)()」と呼ばれ、9~10世紀頃は、()を着けてから(から)(ぎぬ)を着ける例「裳・唐衣」と、唐衣の上に裳の大腰を当てて着る例「唐衣・裳」がありました。
平安の摂関時代(11世紀頃)には、裳が唐衣の上に着けることが定着し、(いつつ)(ぎぬ)が加わり、五衣・唐衣・裳と呼ばれるようになります。
五衣も枚数が決まっていませんでしたが、5枚~6枚に落ち着きます。現在は5枚となっております。
五衣・唐衣・裳を着けたこの装束は女性の正装になります。また「女房装束」や「宮廷装束」とも呼びます。一条天皇の時代である長保(ちょうほう)年間(999~1004)にはほぼ今様になります。
いわゆる十二単とは、(うちき)を何枚も重ねて着ます。枚数は、その時々で異なりました。説としては、12枚の(ひとえ)を着た、又は、袿12枚と単を着たとされています(衣と単と袿は同じ)。

装束は、男性も女性も同じですが、平安文学では、服装で人物を表現されています。身分に応じて着ている色や文様が違い、人物の特定ができます。これを位袍(いほう)(くらい)当色(とうじき))といいます。

また、禁色(きんじき)があり、禁色を使用するには天皇により「禁色聴許(ちょうきょ)」(勅許(ちょっきょ))が必要でした。
「禁色」としては、特に、支子(くちなし)梔子(くちなし))色、黄丹(おうに)、赤色、青色、深紫、深緋、深蘇芳の7色がありました。
なお、聴許(ちょうきょ)とは、訴えや願いを聞き入れて許すこと。勅許(ちょっきょ)とは、天皇の許可を指し、勅令による免許のことを意味します。

平安時代初期、9世紀(特に嵯峨(さが)天皇の時代)までは唐風(からふう)文化(中国)の影響を受けていた時代でした。奈良時代(710)からこの頃までは、礼服(らいふく)朝服(ちょうふく)制服(せいふく)の制度があり、これらは柔らかい装束でした。
また、9世紀中頃(858~887)からは、和様化の機運が高まる時代で、平安朝の寛平6年(894)遣唐使(けんとうし)が廃止され、大陸の文化の輸入が途絶え、以後しだいに我が国独自の方向すなわち「和様化」になりました。これを国風(くにぶり)文化ともいいます。

9世紀後期~11世紀は、摂関時代の全盛期です。藤原道長(966~1027)の時代です。紫式部の『源氏物語』、清少納言の『枕草子』などの文学面でも女性が活躍した時代です。宮廷でも女性の最も華やいだ時代でした。
女性は宮殿(建物)で生活をすることが多かった時代です。この頃の女性の装束は、特に重ね着の美しさを表現するために、色の組み合わせをすることによって、より装束を美しく表現しました。また、この頃女房装束は、一応整います。

装束も中世を通じていくつかの変動を見ますが、15世紀後半、応仁(おうにん)文明(ぶんめい)の乱(応仁元年(1467)5月26日~文明(ぶんめい)9年(1477))の時代には、宮廷の行事や儀式等も中絶し、装束にあっても衰退してしまいます。
近世の東山天皇の時代になると宮廷の行事等も少し復興されます。(じょう)(きょう)4年(1687)には即位式が行われますが、完全ではありませんでした。
江戸時代、19世紀前半(1800年代)の119代(こう)(かく)天皇・120代(にん)(こう)天皇の頃、宮廷の各種伝統行事等も復興します(古制の復興)。装束も平安朝以来の姿を考証し復元されるようになり(有職故実)、現在皆様方が目にする装束は、この頃に復元された形態の物です。
現在皆様方が目にする女房装束の再興については、享保(きょうほう)7年(1722)以降少しずつ再興され、天保(てんぽう)13年(1842)~天保15年(1844)には、現在の形式に近くなりました。皇室で用いられている装束類も、この頃に復元された形態の物です。具体的には、天保14年(1843)頃から現在皇室で用いられている形になりました。
また、装束の着装については、江戸時代に再興された形を、大正の即位礼(大正4年(1915))の時に着付け方などが統一され、現在に至ります。同じ時、男性の方も一部統一されました。

宮廷装束は、現在でも皇室の儀式または祭祀の時に用いられます。その形は平安時代の宮廷装束です。

衣紋(えもん)は、装束の着こなしとか、着付けのことです。その中身は、色目・文様・地質・着装と決まり事(規則)があり、この事すべてを含めまして、衣紋道といいます。
装束を着付ける人を「衣紋者」といい、前を「(まえ)衣紋者」、後ろを「(うしろ)衣紋者」、着る方を「お方」といいます。

十二単の構成

五衣・唐衣・裳
髪上具、小袖(2)、帯、長袴、単、五衣、打衣、表着、唐衣、裳、しとうずくつ、檜扇(39橋)、帖紙
(檜扇の飾り花だけは、高倉流は松・梅・橘、山科流は松・梅が扇に付けられています。)

(うちき)

着物一枚一枚のことを袿といい、十二単はこの袿を何枚も重ねて着ます。枚数はその時々で異なりましたが、平安時代の後期頃(12世紀)には、5~6枚に落ち着き、現在は5枚(五衣)となっております。
(※他の説もあり。12枚の単を着た、袿12枚と単を着た、など)

(ひとえ)

(ひとえ)は元々肌着だった衣であり、単の上に袿を何枚も重ねて着るわけで、8枚だと「八ツ単」「十単」、12枚なら「十二単」といいます。単といわれる着物を何枚も重ねて着ることからそう呼ばれています(衣と袿と単は同じ)。ひねり(のりびねり)は姫糊(米糊)で行います。
広袖では冬は寒いので、のちに防寒着として小袖ができました。

源平(げんぺい)盛衰記(せいすいき)』(げんぺいじょうすいき)
弥生(やよい)(三月)の末の事なれば、藤重(ふじかさね)の十二単の御衣を召されたり」
平徳子(建礼門院(けんれいもんいん))の装いを記しています。これは衣をたくさん重ねて着たという表現です。

※『源平盛衰記』
鎌倉中期から後期の軍記物語。48巻。作者・成立年代ともに未詳。『平家物語』の異本。
(壇ノ浦の戦いは、平安時代末期の元暦げんりゃく2年/寿永じゅえい4年(1185)3月24日のこと)

長袴

長袴には、(はり)(ばかま)(糊を利かす)と(うち)(ばかま)(きぬた)打ち、板引(いたびき))があります。板引は、織物に糊を含ませ、これを漆塗りの板に張り付け乾燥させてからはがします。現在は精好(せいごう)で、経糸(たていと)よりも(ぬき)(いと)を太くして横に強い張りを持たせます。

冬の料と夏の料

すべての装束には、冬の料と夏の料があります。年2回更衣を行います。そして、更衣(ころもがえ)の時期は、4月1日(上半期)及び10月1日(下半期)で、現在は、立夏・立冬を以て夏の料と冬の料を使い分けています。

かさねの色目について

貴族社会は、大きく二つの場面に分かれ、「晴れ」は公、「()」は日常のことをいい、装束も同じように分かれておりました。
()の装束すなわち日常の装束、直衣(のうし)(かり)(ぎぬ)(うちき)(ひとえ)などにおいて、変化が起こり定められた色以外を使用するようになり、「合せ色」と「重ね色」の配色ができ、これがかさねの色目の始まりです。
装束は、威儀を正すものとして欠かすことのできないものでしたが、平安時代の後期には、主体が装飾に置かれ、色彩の華やかさが慣行化され配色の美しさを競うことによって、かさねの色目が発達した面があります。

特に女房装束の美しさを表現するのに、かさねの色目が欠かせないのです。
日本には、四季があり、それによる彩りの美しさを装束に取り入れ、色彩の華やかさ、また配色の美しさで、かさねの色目を表現します。

かさねの色目には、三つあります。
一つは衣の表裏の(きれ)を重ね合した「重ね色目」です。この場合は「重」(おもい)という字を用います。
二つ目は、装束としての(きぬ)を何枚もかさね着してその表に表れる衣色の配列を指す「(かさね)色目」です。この場合は「襲」(おそう・しゅう)の字を用います。十二単((ひとえ)(いつつ)(ぎぬ))などがこれに当たります。
そして「(おり)(いろ)の色目」です。経糸(たていと)(ぬき)(いと)(よこいと)に異なる色を使うと、地と文様との色の対比によって文様が浮き立ちます。

通常かさねの色目は、単と五衣の配色を言います。(うわ)()(から)(ぎぬ)は、地文・上文・織色などを合わせ、かさねの色目を表現することがあります。これは非常に難しく、人により色目が異なります。

【装束の約束事】(長崎盛輝氏)

  • 重色目……衣の表と裏のかさね(合わせ)
  • 襲色目……装束上の衣のかさね(配色)
  • 織色目……経糸と緯糸の色の違い(対比)

かさね色目は、同じ名称であっても、用いる個人の感性によって色調が異なります。(四季二十四節気七十二候、一年を四、五日の周期)
例えば、色目が規定されていたら、桜の季節の宴に出る女性たちが制服のように同じ色目の装束を着たかと言うと、そうではなく、それぞれの感性で桜の季節を表現したと思われます。
かさねというものは、元々冬の防寒の必要性から生まれました。気候風土、四季に応じて配色に趣向を凝らし、衣(着物)の色を組み合わせることによって季節感を表しました。(カラーコーディネート)
かさね色目の基本的な配色には、次のようなものがあります。(通常は単と五衣)

(におい)
同系統のグラデーション(濃淡)、外側から中側へ濃くなる又はその逆もあり。
又は濃い色と淡い色を対比させる。(例:紅の匂、紅梅の匂、紫の匂)
薄様(うすよう)
グラデーションで淡色になり、ついには白になる配色。中側2領が白になる。
(例:紅の薄様、紫の薄様)
村濃(むらご)
ところどころに濃淡がある配色。同色5領、2種類の濃淡、5領が違う色、一色を2領ずつなど。(例:はなたちばな杜若かきつばた、色々)
(ひとえ)(がさね)
夏物の裏地のない衣の重ね。下が透けるので微妙な色合い。
裾濃(すそご)
同系色を重ね、上は薄く、下に近づくほど濃くする。

かさねの色目の例

内側⇒外側〔単・五衣(5・4・3・2・1)〕

紅梅の匂
青、(こき)紅梅・紅梅・紅梅・淡紅梅・より淡紅梅
紅の匂
紅梅、より淡紅・淡紅・紅・紅・濃紅
紫の匂
紅、より淡紫・淡紫・紫・紫・濃紫
紫の薄様
白、白・白・より淡紫・淡紫・紫
紅の薄様
白、白・白・より淡紅・淡紅・紅
松重
紅、より淡萌黄・淡萌黄・萌黄・淡蘇芳・蘇芳
花橘
白、淡青・青・白・より淡朽葉・淡朽葉
色々
紅、蘇芳・黄・紅梅・萌黄・薄色(紫)

かさねの色目を著した故実書として、『()()()()(しょう)(ぞく)(しょう)』(1160年頃)・『女官(にょかん)飾鈔(かざりしょう)』(1480年頃)・『(どん)()(いん)殿(どの)装束抄(しょうぞくしょう)』(1550年頃)があります。

※参考 日本の服飾の流れ

平安時代ですが、大変長く、794年~1185年の392年間です。平安時代を四つに分けますと以下のようになります。

9世紀
唐風全盛期 律令時代 大陸の文化 弘仁9年(818)殿舎諸門を唐風名称を改める
10世紀
国風文化興隆期 変革の時期
11世紀
国風文化全盛期 摂関時代(第66代一条天皇・第67代三条天皇・第68代後一条天皇)
12世紀
強(剛)装束創案期 院政時代

奈良時代(710年~)は、宮廷の装束には礼服(らいふく)朝服(ちょうふく)・制服がありました。
平安時代に入り、第52代嵯峨(さが)天皇の(みことのり)(弘仁11年(820)2月)により、黄櫨(こうろ)(ぜん)が天皇の袍の色に定まり、代々天皇の装束の色として使われました。(※束帯は10世紀頃成立)

また、平安時代末期(12世紀)、院政時代〔大治4年(1129)~保元元年(1156)、鳥羽(とば)上皇(74代)〕になりますと、威儀の整った装束の姿を好み、冠には漆を塗り、装束には糊を張るようになります。この威儀の整った装束は、以前の装束より堅くなったので、(こわ)(剛)装束と呼ばれ、それ以前の装束を(なえ)(柔)装束と呼びました。(※萎装束≒(うち)(なし)装束、強(剛)装束≒(じょ)(ぼく)装束)

宮中と違い院御所では、比較的自由であったため、いろんな面で変化が現れます。

装束にも変化があり、この頃には男性の正装である束帯は、重要な儀式のみにしか着られなくなり、女性の正装である十二単も同じで、当初(11世紀頃)は、()を着けてから(から)(ぎぬ)を着ける例と、唐衣の上に裳の大腰を当てて着ける例がありましたが、この頃から裳を唐衣の上に着けるようになります。
今でいうと略礼服にあたります衣冠(いかん)が束帯に替わり、通常の参内用として用いられるようになりました。

直衣(のうし)という装束がありますが、この直衣は、「ただの衣」または雑袍といい、貴族の日常着です。今で言いますとカジュアルなブレザーのような物です。この直衣でも冠姿(冠直衣)であれば、勅許(天皇の許可)を受ければ参内できました。これを「雑袍(ざっぽう)聴許(ちょうきょ)」(伺い許しをこう)といいます。

(いだし)(ぎぬ)は、(きぬ)という装束を着て、前身頃の裾を袍の下から出します。今でいうオシャレな着こなしです。

束帯と衣冠は位袍(いほう)といい、位により袍の色が違います。これを(くらい)当色(とうじき)といいます。
平安時代初期の(こう)(にん)9年(818)の位当色は、臣下は、(こき)紫一位、(うす)紫二~三位、深(あけ)四位、浅緋五位、深緑六位、浅緑七位、深(はなだ)八位、浅縹()()です。
摂関時代に現在の色になり、四位以上が黒色(紫色が濃くなる)、五位緋色(ひのいろ)、六位以下は縹色となりました。
緑は退色すると青になりやすいことから、二つの色は曖昧でした。これを緑衫(ろくそう)といいます。

鎌倉時代以降は、武士の時代です。宮廷装束も廃れます。
室町時代の初期(足利尊氏の時代)は新しい文化ができ、1400年頃には、衣紋(えもん)(どう)も再び開花します。(第19代高倉(なが)(ゆき)の時。中興の祖)

遣唐使第34代(じょ)(めい)天皇2年(630)~(かん)(ぴょう)6年(894)
菅原道真(すがわらのみちざね)の建議により停止された。(意見を申し立てる)
平安時代(794~1185)392年間 
※藤原道長(966~1027)
鎌倉時代(1185~1333)149年間 
※応仁の乱(1467~1477)
室町時代(1392~1573)182年間
戦国時代(1477~1573)97年間
安土桃山時代(1573~1603)31年間
江戸時代(1603~1868)266年間

衣紋道の歴史

(みなもとの)(あり)(ひと)(12世紀前期~中期)⇒大炊(おおい)御門(みかど)・徳大寺(12世紀後期~14世紀中期)⇒山科(やましな)・高倉(14世紀後期~)15世紀前期には整う
足利尊氏(1305~1358) 将軍期間は1338~1358
高倉永季(1338~1392)、高倉永行(~1416)

女性の装束

女性の着る装束は、大まかに3種類あり、正装の(いつつ)(ぎぬ)(から)(ぎぬ)()()(おうぎ))、略礼の五衣・小袿(こうちき)長袴(ながばかま)(檜扇)、通常の小袿・長袴(檜扇)です。

子供は、童女といい、着ている装束は(あこめ)(ひとえ)(きり)(ばかま)です。持つ扇は、(あこめ)(おうぎ)です。

皇后の御服は、(はくの)御服(おふく)(はくの)(おん)(から)(ぎぬ)(おん)(いつつ)(ぎぬ)(おん)())、(おん)(いつつ)(ぎぬ)(おん)(から)(ぎぬ)(おん)()の御服、御五衣・御小袿・御長袴の御服の3種類です。

女子の服

正装……五衣・唐衣・裳(十二単)
略装……五衣・小袿・長袴、小袿・長袴

(けい)()……礼服と通常服(大正4年)

礼服は、切袴・単・袿・檜扇で、室内では裾をおろします。
袿袴の道中着姿(通常服)は、切袴・袿・ぼんぼり扇です。皇族は、単(礼服形式)を着、檜扇を持ちますが、現在はぼんぼり扇に略されることが多いです。

装束の世界の用語について

装束の世界には、聞きなれない言葉がたくさんあり、同じ字でも読みが違ったり、また、意味が違ったりします。

  • 同じ字でも読みが違う
    「格袋」かくぶくろ・はこえ、「衣」きぬ・ころも、「胡簶」ころく・やなぐい
  • 違う字でも意味が同じ
    (かけ)()」・「紙捻(こびねり)」、差袴・切袴
  • 同じ字で読みと意味が違う
    「布衣」ほうい・ほい
  • 装束の呼び名が職種を意味する
    退(たい)(こう)白丁(はくちょう)

装束の用語

(いだし)(ぎぬ)
牛車など、外出の折、車の下簾(したすだれ)の裾から袖などの衣裳の一部を出す。
(うち)(いで)
宮殿の御簾(みす)の内側に座して、裾の一部を外に出す。
(おし)(いで)
宮殿の御簾の内側に座して、袖の一部を外に出す。
入帷(いれかたびら)
装束を包むもの
小袖と広袖
袖の開き具合の違い
頒幅(あがちの)
平安時代の裳には頒幅(あがちの)という短い生地がその左右につく形になっていました。これはかつて裳を巻スカートのように着用していた時代に、長い裳の裾を踏まないようにした名残とされます。ただし下仕(しもづかえ)の裳には頒幅をつけない例でした。頒幅は鎌倉時代には廃れてしまいます。
比翼(ひよく)仕立て
2枚以上の着物を袖口、襟、裾等が重なったように仕立てる
比翼合わせ
着物を合わせる時、片方をすべて合わせてから、もう片方を合わせる
宮廷
天皇をはじめとする皇族や廷臣・女官・公家等が中心となる社会
有職故実
儀式や公事の礼法に関する知識、先例や慣習を故実として口伝や記録したもの

小右記(しょうゆうき)』正暦3年(992)9月1日

九月一日。(『胡曹抄』一・三四位袍無差別事による)明順真人、四位に(じょ)す。袍を()ふ。三品の袍を以て、四品に送ること、如何(いかん)(しか)れども、之を(つか)はす。其の(むくい)に云はく、「近代、三・四位の袍、其の色、一同なり。又、最初に()くのごとき衣を着し用ゐる」と云々。()りて驚き示す所なり。(めずらしい)と為すこと、少なからず。

「小右記明順真人叙四位 乞袍 以三品袍送四品如何 然而遣之 其報云 近代三四位袍其色一同 又最初着用如此衣云々 仍所驚示 為奇不少」

寛弘3年(1006)

日不詳。(『胡曹抄』による)四位に叙する者、近代、三位以上の袍を着するを聴す。極めて奇しき事なり。

「叙四位者 近代着三位以上袍 極奇事也云々」

令和の即位礼の装束

雅子皇后陛下

唐衣……白地・向松喰鶴(萌黄緯糸)、裏・萌黄菱地
表着……白菱地、ハマナス文様
五衣……紅匂
単……紅幸菱
長袴……紅色

秋篠宮紀子妃殿下

唐衣……亀甲地、尾長鳥丸文
表着……三重襷地、窠ニ菊と栂文
五衣……紅匂
打衣……紫無地綾・裏平絹
単……紅幸菱
長袴……緋色

皇族女子

唐衣……紫・亀甲地、白雲鶴丸
表着……紅入子菱・窠ニ八葉菊
五衣……松重
打衣……紫無地綾・裏平絹
単……濃幸菱
長袴……濃色

高齢者

唐衣……深紫・亀甲地、白雲鶴丸
表着……二藍入子菱・窠ニ八葉菊
五衣……表白松立涌・裏蘇芳
打衣……紫無地綾・裏平絹
単……紅幸菱
長袴……緋色

着装次第

髪上(かみあげの)()

平安時代以降、髪型は(すい)(はつ)(すべらかし・たれがみ)でしたが、江戸時代後期、宝暦(ほうれき)年間(1751~1764)に京都で考案されたといわれている「おおすべらかし」という髪型が取り入れられました。俗に「お(だい)」といいます。お大は、十二単の正装の時の髪型であり、現在皇室の行事等で見られる髪型は、すべて大垂髪(おおすべらかし)です。

この髪型には芯が入っており、(せん)()()伊予(いよ)(愛媛)の国の兵頭仙貨が作った和紙)という厚紙を黒く塗ったもの(「つとうら」という)を髪の中に入れお杓子のように見えるように「(びん)」を張り出します。後ろの髪は、「長かもじ」といい、7尺(210㎝)余りあります。髪を結う個所は4箇所で、一番上から(なが)(かもじ)を入れて、()元結(もっとい)で結びます。絵元結には、(くれない)色と金色があり、紅色は28歳まで、それ以降は金色を用います。二番目は水引(右(かた)(かぎ))、三番目は小鬢先(こびんさき)という白紙(右片鉤)を結びます。それぞれの幅は、一番目…一咫…二番目…一咫…三番目…二咫…四番目といった感じです。(※一咫≒約17㎝、親指と人差指の間、又は親指と中指の間約20㎝の説あり)

お大の代わりにお(ちゅう)を使う場合もあります。お中は髪を結うのが5箇所で、白(たけ)(なが)、絵元結、小鬢先3本を用います。絵元結は、28歳までは紅、それ以降は金色を用います。

また、髪上具は釵子(さいし)(ひら)(びたい))・(かんざし)3本・紫紐2本・櫛・丸髢(まるかもじ)玉髢(たまかもじ))・長髢(ながかもじ)をつけます。
釵子・簪は銀の台に金を鍍金したもの、櫛は沃懸(いかけ)()蒔絵(まきえ)です。

髪型は、儀式の神事の折には、髪上具といわれる飾物(櫛・簪・釵子など)を付けます。特に神事の場合は、(こころ)()付の釵子と、日蔭(ひかげの)(いと)をたらし、小忌(おみ)(ごろも)(清浄の意)を着ます。

小袖

まず襦袢(じゅばん)を着ます。次に白小袖((こき)小袖)を着ます。次に、帯を後ろにて(かた)(かぎ)に結びます(()け目が上になるように)。
小袖の色は年齢に応じて違います。(こき)(いろ)(紫)は、若い女性が着用する未婚者の色です。現在は、第一子出産までになっています。また皇室では、小袖は白のみです。白3枚を着、袴は濃又は緋です。

長袴(ながばかま)

長袴をさばき、紐の輪をお方の左腰の方(右二)にします。お方の右足側は(うしろ)衣紋者(えもんじゃ)がさばき、左足側は前衣紋者がさばきます。お方は、右足から入れます。お方が両足を入れてから、前・後衣紋者は袴を引き上げます。前衣紋者は袴の前紐を帯に沿って後ろに回し、袴の左脇から前に回して、袴の後紐とでお方の右側で結びます。それから両紐の先((りゅう)())を揃えます。

現在の着物姿と違い長袴をはいており、この袴は年齢に応じて色が違います。濃色(紫)は、若い女性が着用する未婚者の色です。既婚者は緋色です。(諸説あり)
29歳以上は緋、28歳までは濃で、絵元結と同じです。
現在、皇室では第一子出産までは濃袴です。

(ひとえ)

単をさばき、両手の薬指を袖口(広袖)のたたみ目に入れ、両手の中指と人差指とで襟頭を挟み、更に両手の人差指と親指で内より単の腰の所を摘み、お方の後ろより着せます。次に後衣紋者が右袖をのばし着せます。前衣紋者は小袖の袖を単の袖の内に入れます。同じように左側も着せます。

次に衣紋(えもん)(ひだ)をとります。前の衣紋襞は、衽下がりにて深くとります。後衣紋者は小紐を前に回し、前衣紋者は諸鉤に結びます。
襟の重ね様は、表着までおめりに気をつけることが必要です。

(いつつ)(ぎぬ)

五衣・打衣・表着は、単と同じ着装です。小紐は順次抜き取ります。何枚もの衣を、2本の紐で結んでいきます。

※五衣……衣とは袿のことで、(うちき)を数枚着るのを重袿といいます。平安時代中頃以降に5枚になります。

(うち)(ぎぬ)

(きぬた)打ちで艶を出した衣で、表着の下襲(したがさね)として着ます。色目は紫、濃、紅です。
鎌倉時代後期から室町時代には、板引(いたびき)となります。

(うわ)()

一番上に着る袿です。寸法は一番小さめです。

(から)(ぎぬ)

一番上に着ます。正装の時に着用するものです。
唐衣は一番上で目立つため、豪華な生地を用いました。

二陪(ふたえ)織物
浮織の浮地文に加えて、別の色糸を「絵緯(えぬき)」として上文を縫い取るようにして織り上げる。高貴な物。
固織物(かたおりもの)
先染糸で織り上げる経糸と緯糸との色を変えられるので、かさね色目とすると文様が美しくなる。

禁色(きんじき)……赤色・青色・紫

()

後衣紋者は、唐衣の襞を取り、裳の大腰を当てます。裳の小腰を前に回し、前衣紋者は唐衣の襟の下にて諸鉤(もろかぎ)(衣紋結び)に結びます。
次に小腰(懸帯)を唐衣の襟の下(裳の小腰の上)にて衣紋結びで結びます。結んだ結果は、下側の帯の方が長くなります。長い方を結び目の下から上に回して揃えます。
次に裳を広げます。(ひき)(ごし)の紐は二巾目になるようにします。

()(おうぎ)

別名は(あこめ)(おうぎ)といいます。板の枚数は39橋です。
室町時代には、6色の糸を(にな)結びにして長く垂れます。また、絹糸製の造花を付けます。造花は、高倉流は松・梅・橘、山科流は松・梅です。

なお、大正の御大礼より、女子皇族の婚礼用の檜扇は、紅梅・竹・流水の山科流の定番の図の檜扇でした。松に尾長鳥は新制です。以後の御大礼は山科流のものを用いました。
また、五節舞姫の扇は38橋(大正以降)です。

参考文献

  • 八束清貫『装束の知識と着装』 明治図書出版 1962年
  • 仙石宗久『十二単のはなし』 婦人界出版社 1995年
  • 八條忠基『有職装束大全』 平凡社 2018年
  • 長崎盛輝『新版 かさねの色目』 青幻舎 2006年